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■ お金の為に働くということ | 2008. 6.10 |
この文章を書くという作業の何と自慰的なことか。 筆者は文筆を業としていないので、割合気楽に趣味的に書いていけるが、職業としている人々の〆切前の重苦しさというのは大変なものなのではないか。 「文章を美しくしようとすると作品が駄作になる」 と言ったようなフランスの諺があるが、こういう言葉にはホッとさせられる。 どんな駄文があろうと、伝えたい思いやメッセージがあれば読んでもらえる文章、お役に立てる文章が誰にでもある程度は書けるのではないだろうか。 いずれにしても朝の体操と同じように夜の文筆もいつのまにか習慣になってしまった。 疲労した肉体や心に少しだけ鞭を入れて完成した時の喜びと何も書かなかった翌日の朝の後悔に思いを馳せながら、ひとコマの文章を完成させるべくペンをひたすらに動かしている。 時間と健康とお金を秤にかけると何となく自然に当然のようにお金を選んでいる人が世の中には多いように感じる。 好きでもない仕事を嫌々している人々があたかもそれが一般的で普通であるかのように生活しているように見えるが、これは時間よりもお金を大事にしているというワケではなく、生きる為に仕方なく働いておられるだけなのであろうか。 少なくとも心の姿勢としては人生と言うものをおろそかにしていると見なすことができる。 何度もくどくどしく述べてきたように、人生=時間である。 その資源の最も重要な必要条件は健康な精神と肉体である。 余命いくばくもない寝たきりの人間にとって巨万の富も無価値であろう。 巨万の富も使ってナンボであるから、使える時間と肉体や感性、感覚を持っていない人間がそれを所有していても何の価値も生み出さず、何の喜びも得ることができない。 目の飛び出るような美しい女性をめとった男が、視力を失ったり、性的不能に陥ったりするようなものだ。 どんなに愛した人であろうと、どんなに好きで楽しい趣味や娯楽であろうと、それを楽しむ為に必要な最も大切な自分の肉体と五感感覚を持たなければならない。 その対象を楽しむことができない。 お金を得られるのはその「対象」であって、その楽しむことの喜びの本質は実は自分自身の感性にあることに気づかなければならない。 時間はその個人の人生にとって、期限の不明な有限の「貴重品」である。 健康な肉体もこれまた使用期限の決められたはかないナマモノである。 とても弱々しく脆弱なあらゆる突然的天災人災や病に対して、とても防備の甘い天然自然の創造物である。 これらの中で、富とか物というものは厳密に有限なのであるが、人間の存在からするとはるかに無限に近く所有も獲得も存在も確認もすることができる。 であるから、これらの中で何を最も大切にすべきは何かと少しだけ自問してみれば、答えは自ずと明々白々と明らかなことである。 ・・・という風に考えられる人はやはり少数派で、多くの人々は朝から晩までお金の為にあくせくと働きつづけ、その人生の本質であるプロセス、過程、つまり仕事を愛することができないようだ。 ありがとうございました たくま癒やしの杜クリニック |