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■ 親子関係の重大さについて | 2008. 6.10 |
毎日の診療内科の診察を通じて、連日思い知らされるのが表題の幼児期における親子関係、その人の人生全体における重大すぎるほどの影響力についてである。 これは実は胎動期から始まっているかもしれない。 もっと言えば、その人の両親の男女としての出会いから始まっているのだ。 数奇な運命に引き寄せられるようにして出会った男女の性の営みによってタマタマ誕生した人間としての生命。 それがどのように育まれていくかは誰も予測不可能だ。 まさに神のみぞ知る。 そしてそのことはすべての人について言える。 全体として見れば誰もが特別な存在であり、誰もが平凡で「ありきたり」である。 よく自立した知・情・意のよくバランスのとれた一個の人間として育てていくには、まず受胎したときに神に感謝を捧げるように厳かにその生命に対して恭しく対峙しなければならないということはないけれど、ごくごく単純に多少演技的でも良いから 「愛してるヨ」 「生まれて来てくれてありがとう」 「嬉しい」 「幸せ〜」 など声をかけるか心の中で念じるととても良いそうである。 時々お祖母ちゃん子、お祖父ちゃん子という人もいるが、これらの人々も心の健康はそれ程損なわれていないが、何かしら深いところで強烈なトラウマが残っている。 それで不幸な生い立ちの人々が必ずしも不幸になりやすいかというとそうでもなく、一般レベルのいわゆる両親のそろった普通の家庭の子供の中に異常に厄介な性格傾向を持った人が時々いる。 普通という異常は最近特に多い。 何の健全な刺激も無く、その代わりに逆に不健全であまり好ましくない刺激がそこいら中に溢れ返っていて、家庭にも主にテレビを通じて流される情報や良くない刺激とその影響を強烈に受けた大人たちの芳しくない言動や態度によって、どちらかというと居ない方が良い、無い方が良いというような人物や情報機器が普通の中にあって案外ホームレスの子供や孤児院の子供の方がマシではないかと思えるくらい健全でない影響をもたらす親も多いような気がする。 話は変わるが、世の中でこの人がいなくなったらとても困るというような人と、「死ねば良い」とまで言われてしまうような人とでは実際はどちらが多いのであろう。 個人的見解を述べれば、多くの人はどちらの面も持っている。 生きていても死んでもどちらでも良いという人と、その人の収入やら年金やら財産やら生命保険金をアテにされるというような少し程度の高い人と、世の中に素晴らしく良い影響を与え多くの人々を助け、救い、癒やし、力づける慰めとなるような偉い人物までそのランキングはさまざまである。 またその逆に家族からも地域からも蛇とかトカゲのように嫌われていて、死んだ方が良いというような人も時々いて、幸か不幸か刑務所に入れられたり、死刑になったりする人もいるが、厚顔を晒して堂々と、逆に意気軒昂として生きている人もいる。 筆者の感想ではあまりに好人物で善良な人は少しカゲが薄い。 「憎まれっ子世にはばかる」 で、多少憎まれたり恨まれたりするくらい存在感のある人の方が大成するようにも思える。 その人間の持つエネルギーが周囲を巻き込み、席巻し、威圧し、結果として畏れられ、憎まれ、時には嫌われる。 こういう人物は多く親から強烈に愛されていて、良くも悪くもさまざまな刺激を大人達から浴びせられて育ち、コンプレックスというものもあまりない人間が多いが、女性の場合コンプレックスの強い人の方が世の中をはばかるくらい押し出しの強い世情に通じたヤリ手が多い。 ありがとうございました たくま癒やしの杜クリニック 濱田朋久 |