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■ 淋しがり屋の損失 | 2008. 5.17 |
淋しいという感情はさまざまの病気や依存症や、有害無益な行動言動を生じさせる危険がある。 多くのアルコール依存症の人は、周囲に「気の小さい人」という表現をされることが多いが、それよりも「淋しがり屋」のと言った方がよい人が多いように思える。 心の淋しさを紛らわそうとして酒を飲むのだ。 酒が飲める体質で、それが好きならもうマチガイナクアルコール依存症への道をまっしぐらだ。 恋人や家族がいるから淋しがり屋になる筈はないということはない。 かえって淋しさがひどくなるケースが多い。 元から独居の人はあまり淋しがる人は意外に少ない。 「独りでいる」というのと「淋しい」というのは、形としては「淋しそう」であるが、決してイコールではない。 「淋しさ」というのは、誰かを求める欲求だ。 愛したい、愛されたい。 いずれも混ざっている感情で、この欲求の根底にあるのは性的欲求だ。 この欲求は、食欲である程度代用が効く。 また、タバコや酒やギャンブル、その他諸々の性的欲求の解消行動で癒やし治められることも多い。 食欲と性欲は、ごく近いところに快感中枢が在るようで、まるでシーソーのように逆比例している。 つまり、性欲を抑えようとするなら極端に減食することで、短期的に抑制しようとするたらふく食物をカラダに入れれば良い。 高まった性的欲求を一時的に急激に萎える。 恋人がいる人も淋しいと感じる。 会えない時も会っている時もそれを感じる。 亢進した性欲が淋しいという感情を薫起して激しい性行動に走らせるか、その感情で本人が苦しむ。 極論するなら、淋しいという感情に基づいた自制心のない行動は、色々な依存症や依存的行動の結果、最終的には自己破壊的結末を招来する。 うさぎは独居を長くさせると、食物や水がいくら満たされていても死んでしまうそうだ。 感情にはとても正直な動物だと思える。 人間も淋しがり屋というのは多く善良で家族思いで正直ということでもあるので、よくこの感情をコントロールして絵画や文芸などの芸術や、仕事や種々の集団行動、例えばボランティア的活動をすれば良いが、それら一連の解消行動パターンを知らない人、怠惰で実行できない人はひたすら無意識的に自己の破壊活動をつづけてしまう。 その上淋しがり屋の人は、人に依存しやすいので、よく人に騙される。 いずれにしてもこの感情を何の制御もせず、野放しにし、人にも公言するとか、しょっちゅう口端に乗せるというには極めて危険であるばかりでなく、周囲にいる心の未熟な人を困らせ、悪い人をして自分自身を格好の餌食にさせる。 したがってそのような言動や感情への警戒心の無さは、自らを最終的に破壊するかはなはだしく困窮させてしまう。 用心したい。 ありがとうございました 追記 「怒り」という感情の根底には、多くこの淋しさがある。 「怒っている人」というのは「淋しがっている人」と見なすことができる。 帰りの遅い夫を待つ妻が「アナタ、今まで何をしてきたのヨ!」と詰問し、「仕事だ」「つき合いだ!」と応じる。 ゲーム(喧嘩)の始まりだ。 心の中をよく吟味して、心の内を正直に素直に表現すれば、『アナタの帰りが遅かったから私は淋しかったのヨ』と夫に訴えれば、『ごめんネ。君を淋しがらせて』と、愛情の確認をし合うのが望ましく理想と思えるが、現実には前者の会話の方がはるかに多いような気がする。みんな人間は淋しいのだ。 たくま癒やしの杜クリニック M田朋久 |