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■ 墓参りについて | 2008. 5.10 |
何の疑問もなく亡母の遺言の実践として墓参りを毎日つづけている。 1年365日のうち概ね300日以上はお墓の前で手を合わせている。 実際に母の生前は時々一緒に参りに来ていたので、墓地は母の思い出の地でもある。 モチロン墓に参る時は、父や祖父や祖母も思い出すので先祖に会いに行くという感覚もないではないが、何の為に墓参りをするかというと、 「自分の為だ」 自分というものの構成要素の「祖」つまり始まりであった概念を追求していくと、今や両親を含んでいる先祖と家族と仕事のパートナーと取引業者さんと患者さんと地域と日本国と世界の平和と時間や空間を越えた無の世界まで思考を広げていかなければならないので、それら全てに感謝をすることになり、その入口としてのお墓の意味もあるような気がする。 筆者より20才も若い男性の書いた本で「成功本のまとめ本」みたいな本を読了して「何かが足りないなぁ〜」と思い浮かんだのが標題の「墓参り」についてである。 この「成功本・・・」は良くまとまっていて面白いので、何十冊も何百冊もビジネス書や自己啓発、成功本を読みたくない気の短い人にはお勧めの本である。 「成功本50冊勝ち抜け案内」 水野俊哉 −光文社− というのが正式な著書名である。 この手の本では、T・ハドラー・ボードンという人の「世界の自己啓発50冊」「世界の成功哲学50冊」というのもまとめ本としては結構面白い。 これらについては後述したい。 話を戻すが、死んだ人の骨や亡き骸を埋めた後に石を建てて拝むというのは人類が発祥してから習慣として根づいたのはいつのころからなのであろう。 大はエジプトのピラミッドから我が日本国の王墓・古墳から小はペットの小さな墓標まであって、この世の中には死者はいつまでも永遠に精神的には世界中の人々の心の中にとどまったままである。 ストーン・サークルとかストーン・ヘンジとか石というものには何かしら霊的な目に見えないエネルギーの代謝や交換を行うチカラがあるのではないだろうか。 先年亡くなられた個人的には精神的な恩人である坂村真民先生の石碑の「念ずれば花ひらく」には、謂わば祈願成就、念願成就のお願いをチャンと言葉にして拝めばキチンとその思いは叶うと先生は明言しておられた。 先生の詩はこのような宇宙と人間と全ての生きとし生けるもの、生命そのものに対する愛と洞察に溢れた内容のモノが多いが、特に石というものにはそのような仲介役としての或るこだわりがあられたように思う。 一時期大流行した「千の風にのって」という若いオペラ歌手の歌も詩の内容は ♪「私のお墓の前で泣かないで下さい〜」♪ とか愛する人を一度でも失ったことのある人々には深い共感を憶えられたらしく、今流行している若い人の歌の中に混じってかなりヒットした。 原曲は残念ながら聞いたことはないが、この歌は医者仲間の先輩ドクターが歌うと特に上手ではないけれど必ず涙が溢れている。 この先輩ドクターとは25年来のお付き合いをしているが、愛する人つまり両親だけでなく女性の愛した人を2度も失って朗々とした歌い方の中にも悲しみがいっぱいつまっているようでいつも感動させられる。 母方の叔父に墓石屋がいて、この鹿児島市に住んでいる叔父の家には浪人中の一年間身を寄せたが、とてもい居心地が良かった。 後でわかったことであるが、私自身との相性のとても良い夫婦で、実家よりはるかに良い気分で過ごせた。 その叔父に作法通りというか墓相の原則に従ってキチンと建立された墓柱は水子供養のお地蔵さんまで入れて3本、墓碑銘などはモチロン無いが没年が刻まれた石まであり、地味ながらその墓地の広さとたたずまいは結構壮麗なもので自慢な所有物のひとつである。 母親の勧めで新しく医院を建て替える前に、新しい墓石を建立することになった。 早四半世紀、25年を経た。 この墓石の存在価値はとても高く、精神的な深い安定感だけではなく、さまざまな念願祈願の成就は言うに及ばず、自分で播いたであろう色々な窮地や危機から救ってくれたというハッキリとした実感がある。 人生全体の、特に不調の著しい人々に時々お勧めをしているが、結果は殆ど大吉である。 いつの日か墓参りというものの効力の科学的な根拠が解き明かされる日が将来やってくるかも知れない。 ありがとうございました たくま癒やしの杜クリニック M田朋久 |