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■ 時間の使い方と目標について | 2008. 5. 7 |
私達の使える時間は現世では有限であるだけでなくもっと実際的には今しか使えない。 昨日も明日もガンバレない。 昨日も10年前も30年前もそれは全て同じように終わった時間、死んだ時間である。 また、明日も10年先も30年先も生きているかどうか全く不明で予測はつかない。 今、今、今、この瞬間だけが使える時間だ。 カリカリと筆を進める作業をとおして、あらためてまたこうして読み、書くことの重みを感じている。 それは書き残すということで、自分の人生に意味を与えることもできるような気がするし、毎度拙著のあとがきでも書いているように自分自身の子供達に、また不特定多数の後世の人々に何か人生のヒントになるようなことをメッセージとして残しておきたいというような義務感めいた衝動に突き動かされて毎夜ペンを走らせている。 今の使い方で最も大切なことを書きつづってみたい。 @目を覚ましていること。 ここでいう覚醒とは医学的、生理的なものではなく、「意識」して思考し、行動しているかという意味であるが、多少の緊張感を持って「生きている」という実感を喜びとやすらぎをもって得る為には心の作業がいる。 それは何事にも何物にも捉われない自由で無心な心であるが、やはり一番簡単なのは瞑想である。 瞑想という一連の作業で心を洗い清めニュートラルでリラックスした精神の状態を意志を持ってつくり出せば、素晴らしい気分を味わうことができる上に、一瞬一瞬をつまり余命を意識して楽しむことができる筈であるが・・・。 A時間を浪費しない。 好きなことを好きなようにしているという自信があれば、どんなことでも浪費とは言えないのであるが、何の目的も意図も意志もなく漫然とテレビを見るとか習慣的にゲームをするとかは思考の停止が起こるので、このような行動は意識してできるだけ避けたい。 あらゆる無意識的、習慣的行動が、自分の制御を超えてつづくならば、決然として卒然と中断するべきである。 時間を浪費しないとは、無意識的習慣的な自動行動のすべてと言って良い。 覚者とか賢人とかは自分の為になる湖とは実行し、為にならないことはやめてしまう。 B周囲や環境に流されない。 常に自分の心を見守り、周囲や環境をよく観察し評価し判断し、自分のアタマで吟味して自分の意思で時間を過ごすことだ。 C目標を持つ。 これは時間を使う為には無関係に感じるかも知れないが、重要なことである。 友人の学校の先生が子供達に「走れ」と号令したところ、闇雲にグルグルまわるか走る以外の行動例、例えば歩くとか飛ぶとか立ち尽くすとかてんでんバラバラで「走る」という目的が達成しにくく、カラダの筋力、心肺機能のトレーニングの意味も生じなかったそうだ。 やはりキチンとゴール(目標)を決め、一定の路線を引いてあげなければ子供はスムーズには走れない。 自由な教育とか、個性を伸ばす教育の弱点というのは、このあたりの感覚、ニュアンスの問題ではなかろうか。 話はそれるが、ある家業を営む友人が突然子供達に家業はたたむから「お前達は何をしても良い」と言われた子供達が晴れ晴れとした良い顔になったかと言うと、全く逆である種途方にくれたような絶望の表情をその顔々に浮かべたそうである。 親というのはある程度は個性重視も良かろうが、子供の適性を発見し、適当に路線を敷いてあげるのもある意味重要で望ましい親心ではないだろうか。 余談であるが、親切という言葉もオモシロイ。 親を切る 親が切る いずれにしても「切る」であるから「離れる」とか「断つ」とかの意味があるのであろうが、親が「決断」する。 親が「決」する。 親が「断」つ。 という意味なら筆者の親は極めて親切であった。 偉大であった。 あの「イチロー」ですら父親が野球というものへ意識的に導いたお陰であのような偉大なプレーヤーになっている。 何かしらの方向づけは何事にも必ずいるものだ。 親の影響というのは良くも悪くも重要であるし、概ね親の職業というのを継いだ人々の方が何となく幸福に見えるし成功もしているように見える。 今の福田康夫総理大臣もそうだが、アメリカのブッシュ大統領も2世で親の仕事を踏襲したが、音楽家も俳優も歌手も大工も医者もみんなそんな風に親の仕事に潜在的に憧れるのかも知れない。 「カエルの子はカエル」 子供の選択肢が無限にある状態、つまり自由にしていいよというのもある意味とても残酷な親の養育態度に見える。 それは子供の意志を尊重するという美辞のようであるが養育放棄のようにも思える。 「何になっても良い」という親の言葉は寛容で優しい言葉に聞こえるが「子供に苦労をさせたくない」という親と同様に、子供に対して「どうでも良いヨ」というような、もっと言えば「アナタがどうなっても私たち(親)は知らないヨ」という風に一種の冷たい態度に思える。 どことなく無責任にも思える。 人生をどのように生きていたいか明確な目標を持ち、一瞬一瞬を楽しみながら自分の為、人の為、世の中の為に生きるというのが一番シンプルで有意義な生命の使い方に思える。 またその実感が一瞬一瞬の作業に味わえればさらに良い。 そしてさらにひとつひとつの作業、たとえば今なら字を書くという作業も気分良く楽しめればさらに素晴らしいと考えている。 ありがとうございました たくま癒やしの杜クリニック M田朋久 |