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■ 復讐心について | 2008. 5. 2 |
前回の続きみたいになているが、人間の心にはこれがあってホントにヤヤコシイ。 「仕返し」したいという欲求は昔はとても強くて、もう時効だからここに書くが、高校3年の卒業式も大学受験も終えた3月のある日に、合格の内定もありかなり開放感があったのであろう、無免許でバイクに乗り警察に捕まって派出所の裏の柔道場で殴ったり蹴られたりして数人の警察官に詰問されたりした上に学校まで報告され、おかげで高校は卒業取り消し、大学合格も自動的に、当然ご破算になり、親の落胆ははなはだしいものであったが、当の本人つまり筆者は案外ケロッとしていたが、この警察については爆弾でも仕掛けて皆殺しにしてしまおうかと2〜3年は思っていたが、これなど完全な逆恨みみたいなものであろうが、このような感情を持ったことのある人は結構多いのではないだろうか。 人は復讐という行為でいったい何を得るのであろうか? 上記の私の場合には、復讐を実行してしまったら人生は終わりであった筈で、今の幸福な状態など殆ど起こり得なかったと想像される。 多くの人々にとっても、復讐を遂げて一瞬は心が晴れたとしても、得るものは一時的な自己満足がカタルシスだけでその後につづくのは長い長い悪夢のような後悔の日々ではないだろうか。 この厄介な復讐心に駆られて激情的に相手をやっつけてやろうとか、懲らしめてやろうとか、というような行動を実際に暴力的に実行したならばこれは普通の一般人にとっては取り返しのつかない事態になってしまうのは目に見えている。 このような愛憎劇の果ての復讐の結末は概ね最悪のものである。 昔も今も、ヤクザや暴力団も、素人相手の復讐などあまりしなかったけれど、利害の対立する抗争事件の復讐戦ですらもう少し巧妙に打算的に計算づくで行われるようだ。 何の利得もない、意味もない復讐などはあまりしないのではないだろうか・・・。 このような過激な復讐行動でなくても、ささやかな復讐というのは、実は日常的には普通に見られるようで、職場や家庭でもさまざまな人間関係の中で意外に頻繁に観察できる。 嫌いなお客さんに対する簡単なサービスのお断りとか、威張りちらす上司に対するチョットした無視とか、帰りの遅い夫に対する妻の寝たフリとか、数え上げたらキリがない。 こういうレベルの復讐というのはとてもささやかだけれども、その人物のレベルとか品格という意味では少し度胸のいる身代をかけた思い切った復讐よりもかなり程度は落ちる。 姑息隠微な復讐行為というのは自らの品格をいちじるしく下げてしまうので用心した。 寛容さというのはいつの世も立派な大人の態度であるのだ。 どうでも良いことには余計な恨みつらみなどキレイサッパリと水に流して新しい出会いに挑戦するかもっと建設的で自己効力感を増してくれる難しい仕事とかスポーツとか芸術作品の創作などに没頭する方が安全であるし、自分の為にも世の中の為にも好ましい。 恨みつらみ、憎しみ、復讐心など有害無益で実行されたら自他共にロクなことはない。 自分が立派になって見返してやるというのがはるかにマシである。 先述の筆者の体験のつづきを述べれば、私は違う高校に行きなおしべつの大学へ入学し無事卒業し医者となって、子供を退学させられた高校に入学させ、その当時の校長にあの時の退学は間違いであったというようなニュアンスのことを言わしめて少しであるが何かしらの溜飲を下げた。 人生はアッという間に過ぎる。 復讐する暇などあったら、見返すために勉強をし努力をし、自分を磨いて「そんなこと忘れました」みたいな鷹揚で寛容な立派な人間になることをお勧めしたい。 ありがとうございました たくま癒やしの杜クリニック M田朋久 |