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■ ゆるすということ | 2008. 4.30 |
罪悪と言う状態があって、それを「責める」とか「罰する」ことから免られるという社会的な行為を「ゆるされる」という風に表現されるかも知れないが、心理的には「ゆるす」というのは、ごく個人的で内面的なものであり、対象つまり罪悪を行った人には関係なく、純粋には「心の癒やし」になる。つまり自分の心に相手や対象に対して「ゆるし」が真に起こったならば、心は楽になる筈であるが、この社会的な概念を心理的な現象と混同している人々が多いのでここに記しておきたい。 人間にはどうも復讐心というものがあって、イスラム教のように「目には目を、歯には歯を」みたいな復讐を奨励するような宗教もあり、実際にはヤクザ映画や時代劇の一部のものには「復讐する」というのがメインテーマになっている物語がとても多いことにも気づく。 昔の東映のヤクザ映画はみんなこの復讐するシーンで警察に捕まるところでエンドタイトルだ。 昔の映画で「ノーマーシー」というのがあって、リチャード・ギアとキム・ベーシンガーが共演したチョットした佳作で、この映画も復讐がテーマであった。 みんな復讐するとスカッとするらしい。 ゆるすなんてモッテノホカ、この楽しみを人に渡してなるものかみたいな、とても人間の心理としては「おいしい」ことらしい。 ちなみに「ノーマーシー」とは「容赦しない」だ。 ナルホド。 余談であるが、出演したリチャード・ギアもキム・ベーシンガーも、もう50代半ばから後半であるが今でも大スターで美しくチットモ年を取らない。 アメリカのアフガン侵攻もイラク戦争も言うならば、9.11テロのリベンジ、復讐だ。 「リメンバー・パールハーバー」 日本の真珠湾攻撃を忘れるなということらしいが、興味深いことに2001年の8月に公開された「パール・ハーバー」という映画では、トゥー・リトル大尉の率いるB−25の爆撃部隊が実際に日本への空爆を行い、中国に降り立ったが、この年の9月11日にニューヨークの世界貿易センタービル、いわゆるツインタワーに二機の飛行機が突っ込んで、見事にこの巨大なビルをこっぱみじんに粉塵と化した。 ついでにペンタゴンの一部にも別の飛行機が突っ込んで、「同時多発テロ」とされたが、このときにメディアも大衆も「リメンバー・パールハーバー」と盛んに言い立てていて、この映画がこの一連の復讐戦争の予兆のようであった。 不思議である。 この事件は、その後に続く事実上の米国の復讐劇の始まりであった。 テロ直後のブッシュ大統領の「これは戦争だ」という当時の発言と、その後のアルカイダ犯人説、ビン・ラディン主謀者説が広く流布されて、アフガニスタン侵攻が決められ実行された。 実際にはイスラム原理主義者の多くは、実はビン・ラディン出身国であるサウジアラビアに最も多く、イラクとかアフガニスタンには過激な原理主義者は意外に少なく、中間層の穏健派が多いそうだ。 復讐という大義名分は世界共通の心の浄化作用があるらしい。 我が日本国でも、有名な復讐劇というと「忠臣蔵」だ。 主君の仇を討つなどというのはいかにも儒教的思想の、それこそ忠臣大石内蔵助を讃えた物語であるが、日本人の復讐する、仇を討つということがいかにも美徳であるような文化であるから、日本人も平和主義者然としてはあまり大きな顔はできない。 しかしながら、大戦後は急速にこの日本人の復讐心も衰えを見せ、ヤクザ映画にその名残を感じるだけとなった。 非戦非武戦を謳う平和主義者でなければ日本人にあらずみたいな風潮についこないだまでなっていた。 ソ連やユーゴスラビアの崩壊で頻発した内戦は、まさに民族間の復讐劇のオンパレードで、集団虐殺や集団強姦などが日常的に頻発したらしいが、真偽は不明だ。 ただメディアの報道ではそういうことになっている。 このような世界中の民族主義者に限らず、一般の大衆民衆までも「ゆるさない」「復讐せよ」という集団ヒステリーのような状態から男女間の嫉妬や不倫、不貞騒動、歓楽街でのホスト同士の復讐目的のリンチ事件、学校でのいじめへの復讐心の治療に使う少し暴力的なサイコドラマまであったりして、本当には人間のこの復讐心への執着にはいささか恐れおののいてしまう。 このような社会的背景を考慮に入れても、やはり心のやすらぎ、魂の成長、心の癒やしには「ゆるし」というのは最高の心理的思寵となる。 何故かというに、相手を「責める」のも自分を「責める」のと同じく、不快な感情であるから、逆に自他を「ゆるす」というのは、理論的には「快」である筈ではないだろうか。その上、相手を攻撃もせず、責めもせずキッチリと自己の制御できる落ち着いて冷静な人間は最終的には多くの人々の尊敬を集める。 マザー・テレサやインド建国独立の父ガンジーのように・・・。 そういう人を腰抜け扱いにする文化も確かに存在するけれども、敢えて内面の問題であるから「自分の心をコントロールできる」ということで、偉大な勝利という風に言えるのではないかと思える。 かの大石内蔵助も単なる復讐鬼などではなく、偉大なリーダーとして47人の武士の心をひとつにして、主君の仇討ちという武士の世界の大義を道を全うしただけであり、吉良氏に対して恨みつらみを持ち続けたわけではなかったと信じたい。 追記 心の中に本当の「ゆるし」が無ければいつまでも「癒やし」は起こらない。 「愛する」と「ゆるす」というのはとても似ている心の状態で、復讐するというのとはそれに最も縁遠い考え方である。 「ゆるす」というのは自らの心を他者の心を平和にする偉大な意志なのであるが、深いところでは攻撃も復讐も愛に基づいた行為である。 愛する者を失ったという痛みを、どうしても解消したいというやむにやまれぬ切羽詰った行為と受けとることもできる。 ただし、「裏切り」をゆるさないというのであれば、組織の統制の為の「見せしめ」という意味と、集団の長と集団そのもののサディスティックな欲求と感情の単なる発露と言えるであろう。 ありがとうございました たくま癒やしの杜クリニック M田朋久 |