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■ 選択肢 | 2008. 4.28 |
私達には、選択肢はどんどん広がって来ており、それが細分化、多様化すれば、それこそが選択の自由を得たと思う人々が殆どであると思うが、果たしてそうであろうか。 少し考えてみたい。 自らの半生を振り返ってみた時に、人生における重大な問題には殆ど全く選択の自由というものが自らに与えられていなかったことに気づく。 またそうであったからと言って、自らがその為に不幸であったとは思えないし、どちらかというと自分自身の愚かで未熟な考え方と判断力の為に、自らの意思でもって選択したことはことごとく大失敗であったような気がする。 まず両親を選択できない。 (霊的世界や精神世界を研究している人々にとっては私達は自らの意思で親を選択して生まれて来たという説もあり、特にそのことに異論も反論もないので、このことは一時切り離して考えてみたい) 両親は選択できないし、小学校、中学校、高校、大学、就職、結婚と出生時から大人になるまでの間に成長とともに色々な人生のイベントにおいて選択肢は広がりを見せ、自由になっているかのように見えるが、よくよく考えてみるとそれらは少しも選択の自由などではなく、「どうしてこの家に生まれたのだろうか」とか「どうしてこの人と結婚しているのだろう」とか「どうしてこの仕事をこのようにしているのだろう」とかを少し考えてみると、自分の強い意志で生じた現実ではないことに気づかされる。 一部の偉大な業績を残した有名人、著名人、実業家やスポーツ選手の中には、「自分の選択」とか「自分の決断」によってたゆまぬ忍耐と努力とによって、さまざまな苦難や困難を克服して、人生の目標を勝ち取り、成功してきたかのように見えるが、そういう一部の人ですら細かく見ると大いなる運命の糸にたぐり寄せられるようにして、その地位や身分や立場に立たされたように見える。 さらに長く大きな目で見れば、小さな偶然、小さな出会い、小さな発見、小さな気づきの積み重なりによって生じた大きなチャンスの渦に引き寄せられた結果その目標に到達したように見える。 この現代において山のように溢れかえった商品や情報や人々について選択肢が増えたことがあたかもサービスの向上と捉えていた時期があったが、この考え方は少し変わりつつあるようだ。 自分のことで恐縮であるが、ここ数年は少しばかり経済的自由が高まったお陰で、自動車を買おうと思った時に、あれほど若い頃に渇望していた自動車というものにあまり強い興味を失っていたばかりでなく、選択できる車種が殆どなく、近々3年くらいはどれも選べないことに気づいて驚いた。 つまり選択肢がとても増えたようで個人的には実のところ全く増えていなかったのだ。 これは2回の結婚や、少し他の異性との出会いについてもいえる事で、全く個人的感想であるが自分は殆ど選択しているという実感は無く、「天から与えられた」という感じしかない。 これはとても男としては無責任な発言に見えるかもしれないけれど、「与えられた人々」に対して、全くの後悔もとりたてて言い立てる程のさしたる不満も無いので、全体としては上出来で大満足している。 有難いといつも思っている。 医療のサービス向上についても、ある厚生省(10年前なので)の高官の方が雑誌のインタビューで、医療の質の向上は、患者の選択肢の幅の増大であるとおっしゃっておられたが、当時でもこれは少し違うなあと言う感想を持った。 医者や医療機関に対して「好き」とか「嫌い」の基準での選択くらいならできるであろうけれど、一般の内科の病気、例えば高血圧とか糖尿病の場合、今はエビデンス(根拠)に基づいた医療ということが勧められており、大きな病院に行く程決まりきった治療以外は選ぶことはできず、十把ひとからげのように紋切り型の糖尿病教育ビデオとかセミナーとかを見せられてオシマイである。 本来はその人の食行動、好み、ライフスタイル、年令、性別、人生観などを総合的に考慮して治療されるべきであろう筈の生活習慣病の治療ですらやけにパターン化されてしまった。 「メタボ」というのは腹囲で測るそうな。 イヤハヤ。 骨格も筋肉も内臓の大きさですら個人差がある筈なのに、また食事の有無と言う条件、姿勢というものもあろう筈なのに・・・。 「人生に選択肢などない」ということを直感的に悟った人を覚者というのかも知れない。 人生に起こったことにおいて、因果の法則を当てはめると逆に全く選択の余地はなかったのだと気づいた人々。 ただ「愛の道」か「恐れの道」しかなく、愛の道は一時は苦しくともその先は黄金の喜びの道であることを知っている人々、ただひたむきに愛の道を歩むことを選択した人々。 このような人々を悟った人と言うのではないだろうか。 世の中の大きなトレンドも、より大きな超遠大なトレンドで見れば、大昔から人間というものは殆ど全く差がないものだ。 選択肢の細分化、多様化などというものにダマされてはいけない・・・と思う。 自らの胸の内にある湧き出るようなときめきと、美意識と良心とにさえ従っておれば、何も選択せずに最良の価値のあるものを手に入れられる筈だと思える。 追記@ 昔の友人で、悪性の病気を患った女性がいて、連日のように電話をかけてきて、ネットで調べた病院とか近くの大学病院とか、有名な専門病院とかあちこち行って決められないからと相談に来たけれど、色々と助言をしてみたけれどよく理解できなかったみたいであいかわらず迷っている。 選択できずにいることを「迷い」の状態と考えれば、選択肢を増やすことは「迷い」も増やすことになりはしないか。 追記A 九州は日向の国、高鍋藩から養子に出された上杉鷹山公は、重度の身体障害者をめとらされ、財政の逼迫しきった藩政をまかされた有名な賢者であるが、彼の人生は選択の人生ではなく「問題解決」の人生であり、「問題解釈」も人生であったと思える。 世の中で真に偉大な人々というのは大概そういうものなのであろう。 追記B 鈴木大拙という高名な禅仏教の研究者によれば、人間の自由な選択というのは、実は自由などではなく実際は自由と思い込まされたある目に見えない法則のとおりに動いているだけだそうである。 それはまるでカゴの中にいる鳥が、カゴの中を世界のすべてと思っているようなものだそうである。 ありがとうございました たくま癒やしの杜クリニック M田朋久 |