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■ 易と精神医学@ | 2008. 4.24 |
臨床精神医学の書物や雑誌をパラパラと拾い読みしていて気づいたのであるが、本質的にその病理病因については結構精神医学というものの限界があまり広くないのではないかということにである。 西洋医学的に発展して来た精神医学も、脳や神経系との関わりを中心に見る見方殆どであるが、心とか霊性とか今でもあまり科学的に捉えられていない分野にまで踏み込んで著してある成書はあまりない。 これは当然であろう。 医学というものは、殆どの人々にとって科学の一分野と一般的に信じられていて、実験的に証明されたものとか明瞭に万人に説明できるものしか受け入れない傾向にあるので、多くの医学者はそのことについて語ることに或る種の“怖じ気”を感じているのではないかと想像している。 これは自分もそうだ。 中世から近代へのシフトは宗教から科学への人々の「信仰」の対象の変化とも捉えられている。 そういう怪しげなオカルト的な理論や理屈については、反射的に拒否反応を示す人もいて、おおっぴらに発言する人はあまり多くない。 チョット前によくテレビに出ていたw大学の某センセイは、反オカルト主義者の先鋒で、ありとあらゆるそういう実証できないものについて徹底的に反論されていたが、この世の中あらゆる物事の本質的究極的命題「私達は、この世界は何故ここに存在しているか」という問いには未だにどんな偉い学者も説明できていないのに、またさらに人間がその知性の限界まで考えて実証できないものなど世の中にゴマンとあるのに、何という浅薄で軽々しい頭脳の持ち主かと思うのであるが、この先生の味方や信奉者もまた世の中に広く存在しているようで、説明しても分からないだろうとおもうのだけれども、筆者のところに来られる患者さんの多くは少し霊的、易占的で多少オカルト的な話にも耳を傾けてくれるのでとても有難く感じる。 そもそも日本人に限らず、世界中でオカルト的な思想哲学と言うのはマジメなものも、アヤシゲなものも混在していて、とても紛らわしいが、或る程度の常識的な感性を持っている人ならば、オカルト一辺倒になることもなく、反オカルトのカタマリのなることもなく、大概両方を上手に日常の生活に取り入れていて、「そんなことをしているとバチがあたるぞ」とか「先祖を大事に祭りなさい」とか、「家相」とか「人相」とか「星占い」とか或る意味で怪しげな辻占いみたいなものも結構バランス良く信じておられる人が多いようだ。 そもそもオカルトという言葉は決して悪い意味ではなく「隠された」とか「秘密」とかの意味があると同時に「神秘的な」とか「説明のできない隠された真理」といような意味も込められていて、反オカルト一辺倒の論者と言うのは総じて勉強不足か、洞察力、観察力の鈍さとかがあると言わざるを得ない。 人間も人体も宇宙も生命も神秘そのものではないのか。 モチロンとても怪しいご託宣を授けられたとか、「私は神だ」とか自称したりする新興宗教の教団や教祖もいたりしてヤヤコシイが、それでも敢えてここに断言しておきたいのは「現時点で人間の知性では説明もできない、実証もできないからと言って、それが真理でもなく、その理論や理屈が正しくないという理由にはならない」と言うことである。 霊とか魂とかいうものも写真で撮ったり重さを量ったりして実在するという実験もあったらしいが、これすらも一般にはまだ受け入れられているという風でもない。 ただし、経験的に自分の先祖の墓参りと言う習慣が、その行為をする人を幸福にするというのは特に先進国では共通であるようで、アメリカ、イギリス、フランス、ドイツ等の先進国と呼ばれる国々の人々は皆熱心な墓参り者の国である。 今や中国やインドでも、政府の要人とか富める人々はまた熱心な親孝行である先祖供養というものをよくするらしい。 中国人の中企業の社長の友人がいたが、この人はそのあたりの日本人よりも侠気男気の人で、親孝行で、墓参りもよくするとても信心深い人であった。 インド人もカーストという厳しい階級制があって、下層の人々は今でも墓は持てないが、上層の人々はそのような先進国の習慣を持っているようだ。 日本人の場合、戦争中の英霊の遺骨を拾いに行ったり、その国の日本の大使館がその外国で死んだ日本人の墓の管理をキチンとしているということもあるらしい。 これはイギリスなどはそういうことはあまり熱心ではないようで、イギリスよりも日本の方がやや発展している原因と少し前までは見られていた。 このように「墓参り」というような極めてオカルト的な行為を日常的に行っている日本人が、反オカルトのカタマリになるのはかなりおかしな現象である。 日本人の家のすべてに神棚も仏壇もなくなれば、霊的には日本という国は滅びてしまうかもしれない。 というより日本という国家は存続できなくなるかもしれない。 これがすべて前置きであるが霊的な問題を抜きにして、人間の精神を診るのにかなり無謀であるだけでなく、或る意味暴挙なのではないかと思う。 文字学からしても精神というくらいで、神の精なのだし神経というくらいで神の経(みち)なのだ。 易というのはどちらかというとオカルト的で、霊的なものと見なされやすいが、勉強すればするほど哲学的で科学的な精神医学的なものに思えるのだけれども、今回は前置きが長くなったので、易と精神医学についての詳細は後述したい。 結論として述べるならば、こと九星術を見る限り、その九つの星の人々特徴は細かくすればするほどますますその特徴を露にしているように感じられ、その的中精度はさらに高まるようだ。 そういう意味では精神医学的治療に易学と九星術は今では全く切り離して考えられない。 何故かというと、全てその星どおりの運気と思考パターンとかが相まって、その精神的苦悩というものがその人の星どおりに推定、診断、評価されやすいという点で極めて便利な診断評価基準を筆者に作ってくれる。 ありがとうございました たくま癒やしのの杜クリニック M田朋久 |