コラム[ひとくち・ゆうゆう・えっせい]

コラム:ひとくち・ゆうゆう・えっせい

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■ 仕事について2008. 4.23

書店のビジネス書コーナーに行くと、最近良く見かける本が当り前であるが「仕事」とか「働く」とかの意義についての内容のモノだ。
恐らく若者向けに書かれてあるようだ。

筆者の仕事についての考え方はシンプルだ。
一言で表現すなら、それは「社会への貢献」だ。
そして普通はその貢献度に応じて見返り(報酬)が社会から与えられる。
決して社長さんが報酬を決定するワケではない。
社会貢献というとすぐにボランティア活動を思い浮かべるが、ワザワザそんなことをしなくても、どんな動機であれ、どんな仕事であれ突きつめて考えれば、誰か他の人を喜ばせる立派な社会貢献である。
その上税金も払うので国家や社会に多大な貢献をしていることになる。
泥棒だって社会の迷惑でもあるが、よくよく考えてみれば警察の人々を喰わせていることになる。
世の中に犯罪を犯す人がいなくなれば警察官は不要となる。
ありとあらゆる仕事は、誰か他の人を喜ばせている筈だ。

イスラム教の教祖ムハンマドは「人間の最大の喜びは他人の顔に喜びの表情を浮かべさせることだ」と言い切っている。
だから仕事というものは本来、人間の最大の喜びの筈であるが、実際には多くの人々は生活の為に嫌々その仕事をしているかのように見える。
確かに人を喜ばせているという実感を感じることのできない仕事も多いけれど・・・。

これも言い古された話であるが、レンガ職人の話が有名だ。
一人のレンガ職人にお前は何をしているかと尋ねると、「見りゃぁわかるだろう!?レンガを積んでいるんだヨ」と。
また他の一人に同じ質問をすると、「私は時給○○円の仕事をしています」と。
またもう一人の職人に尋ねると、「私は教会を建てているのです。完成したあかつきにはどうぞ見に来てください」と顔を輝かせ、生き生きと楽しそうに作業をしながら答えたと。
これは仕事というものへの心の態度の典型的な例を示す有名な寓話である。

一人目の職人は、仕事をただの作業だと考えている。
二人目の職人は、仕事を生活の糧を得る為の手段にしている。
時給というくらいで、人生の時間を売っているとも言える。
三人目の職人は、仕事を目標を達成する為の手段としていると同時に社会への貢献であると自覚しながら作業をしている。
全く同じ行動であるのに、これだけの意識の開きがあるというのがこの話のミソである。

どの職人が幸福であろうか?

現代は仕事や労働というと、二番目の職人つまり時間を売っている人が多いように見える。
実際に若い人へのアンケート調査でも、第1番目が生活の為とある。
子供を学校へやる為とか生きていく為とか妻子を養う為とか、中には野心満々で大きな仕事をしたいとか有名になりたいとか大金持ちになりたいとかの強く激しい動機や衝動に突き動かされて仕事をしている人もいる。

「自分は何の為に仕事をしているか」と尋ねられれば、上記のいずれの動機も少しずつ混ざっているような気がするが、朝起きて仕事に向かう時には少なくとも先述したどうきはいずれも殆ど無い。
無心に仕事を楽しみに出かける。
仲間の顔を見るのが好きだし、申し送りという簡単な打ち合わせも好きだし、朝の挨拶も好きだ。
余計な事はあまり考えず、患者さんの健康を喜び、幸福の為に一心不乱に仲間達の協力を得ながら働く。
仕事は純粋に楽しい。
時々嫌なこともあるがそれも楽しい。
怖い時もあるがそれも楽しい。
親から良い仕事をもらったものだ。
いつも感謝している。

筆者の親戚には大きな会社を持っている数十億の資産を持つ大金持ちの従兄が何人かいるが、私のことを羨ましいと言う。
何故かと言うに、まず「楽しそうだ」だそうだ。
その上に純粋に人々に感謝をされることも多いからだそうだ。
親戚の大金持ちの人々は、税務署からすらあんな高額な大金を払っても大して感謝されないし、地元に少しばかりの寄付をしても金持ちだから当然とばかりあまり感謝もされない。
大手も広告会社や新聞社がお得意さんであるからある一瞬は感謝されるらしい。

別に感謝される為に仕事をしているワケではないが、本当に純粋に一生懸命に仕事をして喜んでもらうのは、最高の喜びだ。
また人々の為に役立っているという実感はとてもありがたいものだ。

その上筆者の場合、仕事の作業そのもの、つまり患者さんと話をしたり悩みを聞いたりアドバイスをしたり、検査をしたり診察したり、手紙を書いたりカルテを書いたり、スタッフと話をしたり電話をかけたりと、ひとつひとつの作業そのものが楽しいので尚更だ。
だから日曜とか連休と正月とかいわゆる休日はあまり好きではない。
だからと言って年中働けと言われたら、少し怖じ気ずくかも知れないか、今の気分や調子なら別にあまり抵抗なく「ハイ」と請け負ってしまうかも知れない。

「楽しくなければ仕事ではない」

「楽しくなるほど打ち込まなければ真のプロとは言えない」

これは私の言葉だ。
楽しいことをするか、楽しいのではない楽しくないことを楽しみの変えていく作業が人生における仕事の意義だと思う。
そういう人生の修練の場が仕事だと思う。
だから仕事をしない人とかしようとしない人、また、したくてもできない人は私から見ると少し気の毒に思える。
これは本当のホンネである。

仕事についての意識としては、できるだけ目線を高く遠くに置きながら、目先のひとつひとつの作業を楽しむという風にしている。
であるけれども単純で思考の要らない仕事はしたくはない。
複雑で難しい仕事ほど気持ちが燃える。
辛いけど燃える。
仲間達も燃えてくれると尚更嬉しく有難い。

こういうことばかり考えているので、仕事は効率的でもなくあまり最近は医療費抑制の制度の為に儲かってもいないらしい。
それでは困るのだけれども、利益を上げる工夫をする仕事をしてくれる人、難しい資金繰りを解決する仕事を頑張ってくれる人に働いてもらっているので、何となく呑気に仕事に没頭できている。
安心というワケではないが、そこまで考えていたら医者の仕事はできなくなる。

スーパーマンみたいにアタマがよく、体力気力満々なら別だが(そういうドクターもいるらしい)、初老も15年過ぎた55才の、ある意味ベテラン、ある意味ロートルの医者の仕事観、仕事に対する考え方、感じ方の自分なりの理屈、背景を述べてみた。

ありがとうございました

追記@
専業主婦という仕事も大変であると同時にとても意義深い。
「社会に貢献している」夫を陰で支え、精神的バックボーンになり、その夫の子供を預かり、育て、教え、立派な社会人として自立させ、次世代を担う人間として一人立ちさせなければならない思い責任を負っている上に、家事という労働も生半可ではできない。
日給にすれば平均8000円だそうだ。
だから教育費や食材や水道光熱費をひいても、月に24万円は払わなければならないという計算になるから殆どの主婦はただ働きのボランティアだ。
実際上男も養ってやっているみたいな大口はたたけないことになる。

追記A
最近では仕事を越える「楽しみ」というのがなくなってしまったので、殆ど出かけなくなった。
「ゴルフ」とか「食事に行く」とか「飲みに行く」とか「買い物」とか、まるでメンドウクサクなり時間の浪費に感じる。
僅かに楽しみが残っているのがやはり読書であり車でありオートバイでありバスケットボールであるが、読書以外のこれらの楽しみは結構体力を使うので、これらすらも近頃はままならない。

たくま癒やしの杜クリニック
M田朋久





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