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■ 現代の家族の風景 | 2008. 4.16 |
とても貧しい国ならいざ知らず、豊かな国では親子は思春期を過ぎたら離れた方が良い。 親と子というのは遺伝子が近いせいか反発しあうもののようである。 親と子では成長すると声などもお互いに「嫌らしく」聞こえるらしい。 丁度プラスとプラス、マイナスとマイナスが反発しあうように。 その点、夫婦はもともと他人であった上にどうも遺伝子が遠い程お互いを好もしく感じるようで「ガイジン」と付き合いたがる人もいるが、一方では人間というものはマザコン・ファザコンになるべくして育てられた為か、父親や母親と似た男性や女性を求めてしまうという一面もあり、このあたりの感覚は結構ヤヤコシイようだ。 いずれにしても夫婦というのはお互いに癒やし合うそうである。(ホントかなぁ〜。) 少なくとも声は癒やし合うようで、親や子の声より配偶者の声は好もしいそうだ。 親子喧嘩は夫婦喧嘩より醜いとか美しいとかは無さそうであるが、家族内の騒乱やいがみ合いには、人間の心が今のような豊かな社会では耐えられなくなって来たのではないかと思える。 お互いにワガママが通る世の中になったせいではないかと思える。 つまり、人間関係でのいざこざや軋轢に対する耐性ができていないので、ささいなことにカンタンに「キレ」てしまうのである。 親も子、兄弟もそれぞれ忍耐できなくなった。 また忍耐する必要もなくなった。 貧しい社会では、家族は小さく寄り添って生きることで低い所得でも上手に分け合って、またぶんどり合って何とかかんとか口糊をぬぐってきたのだ。 豊かな社会ではそんな必要はない。 同居していても、それぞれに個室を持ち、それぞれに引きこもる。 食事時にせいぜい居間で集まる程度であるが、最近はそれもままならない。 家族の団欒というのは、食事のシーンであるが、そういう光景はテレビのホームドラマの事実上の消失と共に現代の日本ではあまり見られなくなった。 母親は家事や料理をいとい、父親は家族の教育や監督を放棄し、子供は勉学や家の手伝いを怠け、老者を敬せず、家族の崩壊は全員の視線がテレビを通じて流される社会の遊惰な風潮を追ってしまうことで確実に着々と進行しているように見える。 せめて子煩悩の母親か父親、家事や料理が好きな母親か父親、仕事が大好きな父親か母親、勉学や何かしらの修行やスポーツに没頭する子供でも家族の中に幾人かいれば、そのチームの態を成すと思えるのであるが、それをが全くないような家族の場合、ただの共同生活者としてのお荷物か寄生者かあるいは強力な養護者が存する場合、全員が依存者になってその強力な養護者を失うまで感謝や愛を少しも、心の内に憶えず、野生の動物の方がまだマシに見えるような醜い金銭欲とか情欲とか物質欲とか虚栄とかのカタマリになって、家族という社会の最小の単位集団を少しも統制のとれていないバラバラの卑小なチームにしてしまったように見える。 戦前は教育勅語なるものがあって、多くの日本国民はこれを暗誦し記憶し、心に刻んでいて何とか家族というものの存在価値を一様に学んでいたが、戦前の文化はすべて悪しきもの古きものという有識者の人々の反発もあったりして、今でもこの勅語の話をすると露骨にいやな顔をする日本人も多い。 いずれにしても現代は、家庭というものは幼い子供を育てる場であるかもしれないが、成人した大人たちが老者を含めて共同生活できるような甘い空間ではなくなってしまったのだ。 「家電から個電」という造語もあるくらいで、電話もテレビも個人で一本一台ずつ、中には車も一台ずつ、すべてが個としてその存在を主張し合う家庭とは名ばかりの家と、家族という名称の愛情欲求と金銭欲と寝食欲のまぜこぜに詰め込まれた欲望集団と化してしまったように見える。 大きなカン違いであろうか? 言い過ぎであろうか? ありがとうございました たくま癒しの杜クリニック M田朋久 |