コラム[ひとくち・ゆうゆう・えっせい]

コラム:ひとくち・ゆうゆう・えっせい

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■ 共済主義者(?)のすすめ2008. 4.14

マイケル・ムーア監督の話題の映画「シッコ」を観た。
民主党のO氏以下何人かでこの映画を観たそうだ。
政治家として医療制度の勉強だそうな。

アメリカと言う国は面白い国で、国民総生産いわゆるGDPにおける医療費の割合は世界1である。
日本の2倍近くだ。(この資料は少し古いので、今は少し違うかもしれない)
にもかかわらず先進国中国民皆保険でない唯一の国だそうである。
5000万人が無保険者なのだ。
さらに、たとえ保険加入者であっても公的保険ではなく民間保険なので、保険会社から支払を拒まれることも多いそうだ。
またその上に支払を受けたとしても、自己負担額が高い為に破産してしまうケースもあるらしい。
アメリカでは相当のお金持ちでなければ、オチオチ病気にもなれない。
アメリカからすると、日本などまるで天国のようだ。
国民皆保険(公的)、低自己負担、いつでもどこでも病院に安心してかかれるからシアワセだ。

実はイギリスのシステムもひどいらしいけれど、イギリスのシステムたとえば専門医教育制度を取り入れようとしている「専門家」の日本人もいる。
小児科の専門医は2000人必要なのに500人しかいないという実態を持つこの国の制度を、手術待ちの期間が3ヶ月から半年という国の制度を。

郵政民営化と同じように、うまくいっていない国の制度をどうして政府は取り入れようとするのか不明だ。
うまくいっている制度は維持した方が良いと思うのだが、どうも「変革」とか「時代の変化に対応する」「少子高齢化」とか「財政難」とか言われると国民も黙ってしまう。
反論できない。

そもそも「保険」と言うから良くないと思う。
保険というのは「イザ」という時のものだ。
「もしも」の時の為のものだ。
その上、民間の保険会社というのは、純粋な営利目的の企業だ。
加入者からお金をできるだけ集めて、それを銀行に預けたり投資したり、何か一部の人々の営利の為に使ったりすることも大いにある。
日本でも公的保険の基金の大元である社会保険庁の不祥事というのも、「集まったお金」の使途についての問題であった。
「保険」といっているから変なのであって、「共済」と言えばそうであろうか。

「共に済(たす)け合う」

つまり加入者同士を助け合う為の目的で組織をつくり、その組織の営利を目的にしないことを理念に謳えば、そのような奇妙な事態は生じないのではないかと思う。
こんな風に書くと、何だか共産主義者になったような気がするが、どうせなら「共済主義者」と呼んで欲しい。

最近では保険会社も外資系が入ってきているが、「払い」はあまり良くない。
旧郵便局が一番払いが良く、「○○共済」と言うところも支払いはスムーズだ。

社会保険、国民健康保険もその名のとおり公的保険であるが、どちらも本部は「支払基金」と呼んでいて、いわゆる民間保険会社とはあきらかに意趣を異にする。

政府の財政難を言い訳に公的保険を減らし、民間保険に移行させようとした財政経済諮問会議の議長をしていた人物がいるが、この人は保険会社を傘下に収めた一大金融グループの総帥であった。

いやはや「お金の力」とは怖いものだ。
それを扱う人には、少しは恥とか名誉とか多少の倫理観が要るのではないかと思う。

みんなで済け合いましょう。
医者が言うと単なる「キレイゴト」に聞こえるかも知れませんけど・・・。

今や「ボーンシリーズ」の大ヒットでハリウッドの大スターになったマット・ディモンの主演映画「レイン・メーカー」では、悪徳保険会社の悪業三昧を描いた秀作があるが、内容は白血病の青年が保険会社にお金を何度も請求したところ「お前はバカだ」呼ばわりまでされて、弁護士に相談したところ、保険会社の優秀な顧問弁護士団との対決をして勝利をおさめる若き新米弁護士の活躍を描いて秀逸であった。

この保険会社のスゴイところは保険金を請求された際に、何の審査もせずにただちに「NO」と言うところで、それでも請求された場合には顧問弁護士に対応させるというものだ。
驚くべき倫理観のなさであるが、そういう会社が実在しそうな、アメリカという国の社会的背景の暗部がうかがわれて興味深かった。

病気というものはもともと人間と生まれた以上普通ついてまわるものだ。カゼとか虫歯とか、もっと悪性のものから心の病気まであって医者とか医療機関へのアクセスは常にオープンにしておかなければならない。・・・と思う。

ビクトル・ユーゴーの長編小説で有名な「レ・ミゼラブル」で、ミリエル司教の人柄を示すシーンが冒頭に出てくるが、司教のぜいたくな公邸を隣地の病院の病棟として開放し、国からもらう給与の大部分を病院の運営にまわし、司教自身とその家族は隣家のつつましい家で暮らすというのがあったが、医療というものは本来そういうものだと思う。

この小説の中で、教会のドアは「開け放して」おかなければならず、病院のドアは「開けて」おかねばならないというこの司教の言葉があったが、基本的には筆者も大賛成である。
実際は不可能かもしれないけれど・・・。

ありがとうございました

たくま癒やしの杜クリニック
M田朋久


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