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■ 嘘つきのすすめ | 2008. 4.11 |
兵法36計というのがあるが、これは孫子の兵法のことではない。 起源は同じくするが・・・。 敵をあざむく・騙すという手段は、戦いの場では当然の戦法である。 囮作戦なんていうのはその典型だが、36計のウチでも30%くらいはダマシである。 中国人はこのような思想を長い間の歴史の背景に持っているので、物事の現象や出来事には必ず何かしらのウラがあると考えるのが一般的であるらしい。 ユダヤ人とかインド人とかアラブ人とかも、策略とか計略とかは当然のようにするらしい。 外交とか交渉とか貿易とかは、これに満ちていると思うが、国際的に見ると日本人の正直さ・無邪気さはアメリカ人と双璧をなすように見える。 アメリカ人というのもあまり複雑な思考は苦手で、概ね正直である。 プロテスタントの人々の宗教的特長の第1は正直である。 近頃は少し風向き宗旨替えが起こっている。 ユダヤ人が経済を握っているからだそうだ。 アメリカの初代大統領ワシントンの桜の木の逸話は有名である。 正直は最大の徳である。 正直は最良の手段である。 これは社会で信用を得る為に、最も安易で強力なひとつの戦略と考えることもできる。 特に税務署、警察、銀行などは嘘を嫌う。 職務の執行上必要だからである。 税務署とか警察などは最初から疑ってかかる。 銀行もお金を貸す時に保証人とか担保を取るわけであるから、人を信用していないと言える。 これらの組織を相手にする時は小さな嘘も禁物である。 ロクなことは無い。 お金持ちの人々の信条のアンケート調査でも、「目ハシがキク」「チャンスを見逃さない」などの、やや知略策略的な性質よりも「誠実」とか「正直」が一番であったそうだ。 これは筆者の経験からも大いに肯首するところである。 世の中は信頼と信用で成り立っており、虚偽と不信頼は社会生活上の不徳の最たるものである。 このような理屈や社会的背景を考慮しても、人間は時には嘘をつかなければならない。 自分を守る為に、全体を守る為に、愛する人々を守る為に・・・。 人を貶める為の嘘というのは不徳中の不徳であるが、それでも戦う相手であれば攻撃の手段として、時に用いる人がいるがこれは平和な時は、大概結果は良くない。 これは人の信頼を裏切るばかりでなく、タチの悪い人として人々からもうとんじられて仲間からも最終的には裏切られてしまう。 最終的に裏切られる人の特徴として「人を中傷する人」と言っても過言ではない。中傷は諫言とは異なり誰かを攻撃するためになされるが、巡り巡って自らを攻撃の対象としてしまう。 「目的は手段を正当化しない」というひとつの哲理があるが、果たして真実であろうか。 例えば、愛する人を救う為に又はボランティアの活動の資金の調達の為に銀行強盗をするというのはこの理屈のとおりで言語道断であろう。 動機も目的も善意であるが手段を全く正当化しない。 しかし例外もあってこの理屈も絶対ではない。 たとえば良い結果を招く嘘でも「嘘は嘘」絶対良くない・・・というのは違うと思う。 女性の忌まわしい過去というのは、愛する男性には生涯隠しとおした方が良いと思うし、男性の場合もそれは言える。 昔の映画で、ゴッドファーザーというのがあったが、人をいっぱい殺したマフィアのボスが敬虔なキリスト教徒の妻に「殺していませんネ?」と詰問されて、「殺していない」と堂々と嘘をついていたのが印象的だったが、このような場合の嘘は仕方が無いと思う。 妻も夫の「人殺し」の事実を知ってしまったら、自分が危険にさらされるだけでなく、夫の子供達に自分達の父親は「人殺しですヨ」と正直に言うワケにもいかないから、このマフィアのボスは二重にも三重にも妻を守ったことになるのに、この妻は最終的にはこの夫を、真の不実でも優しくもない、男らしい男でもあったにもかかわらず、最終的に離婚してしまった。 自分の宗教的信条に従ったワケであるが、「嘘」というものには必ず何らかの意図があって、それが善なるもの少なくとも、自分に向けられた善なるものなら、その心情を汲んであげた方が良いような気がする。 何でもかんでも正直に言ってしまう男が友人の中にいたが、逆にこの友人は人から全く信用されなくなってしまった。 何故かというと、正直すぎて秘密とか嘘を心の中に保持できなかったからだが、本人は「正直に言って何が悪い」と平然としていたが、流石にこの友人も50代を過ぎてからやっとこのあたりのニュアンスに少し気づいたのか、やや沈黙するとか嘘を容認するとかができるようになり、つき合いや社交も少し改善しているようである。 こういう人を「バカ正直」と言うが、嘘にも正直にも限度がある。 筆者の場合、いつもその意図とか背景とか心情を慮り、ケースバイケースで判断している。 嘘つきだからと言って、無闇に責めたりはしないし、正直だからと言ってただちに簡単に褒めたたえたりはしない。 結果についての配慮と思いやりの方が重要と考えている。 少しも周囲に悪影響のない他愛のない嘘など全く一顧だにしないことも多い。 そういうものは最終的には自分が責任を執る羽目になるワケであるし、実害と言うのはほとんど大したことはないことが多い。 だからこそ、内容が真実であってもいわゆる中傷のような悪意があれば、正直と言っても多くの人に責められ、時には殺されたりもする。 「真実を知っているぞ」と他人の悪事を公言をして平然としている人がいるが、自分をいかに危険な立場に追い込むか、理解できない愚かな人と言えるかもしれないと思う。 筆者の場合、記憶している限り、他者を嘘つき呼ばわりして非難したことはない。 本来、人間は嘘をつく生き物ではないかという認識がある。 寿司屋のオヤジが「今下痢してまして、今便所行って来ました」なんて、たとえ真実であっても正直に言っては欲しくはない。 キチンと嘘をついて欲しい。 「嘘も方便」と言うのは、日本人の生活上の知恵であるのだ。 人間は丸裸では生活できない。 服を着て、家に住み、車に乗っている。 あまりにも正直というのは愛すべき人柄であるかもしれないが、丸裸で生きている無防備な人と言えるかもしれない。 何事もバランスであろう。 ありがとうございました たくま癒やしの杜クリニック M田朋久 |