コラム[ひとくち・ゆうゆう・えっせい]

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■ 嫉妬の終わりと恋の終焉2008. 4. 4

恋と嫉妬とは深い深いカンケイがある。

“恋の季節”というのは、動物の場合“発情期”のことである。
もともと性欲と言うのは、動物としての進化がすすむ程、嫉妬を多くその欲望に含むように思える。
つまり、高等になる程、独占欲も激しくなるようだ。
即ち、性欲の対象がより限定されてくるということだ。
世界中で男は(女は)アナタだけヨ。・・・みたいな・・・。
そのたった一人の対象を失うことを失恋と呼ぶが、そういう人を慰めるセリフもまた世界中どこでも殆ど同じだ。

「男(女)なんて星の数ほどいるじゃない」

あ〜あ。そうは思えないから恋というのだし、世の中に恋の物語と結婚というカタチが存在する。
この男(女)は私のモノよという社会宣言みたいなものだから。

決して子供を生むだけの社会的装置ではないのだ。
また女に子供を孕ませるというのも、ひとつの男の独占と支配の手段と言えるかも知れない。
男が女を支配独占する手段としての子供の出産と聞くと、何だか悲しくなるが、それこそ愛欲の深さ、恋心の純粋さの発露とも受け取れる。

表題の嫉妬であるが、この字面からすると「女」の特長的性向なのであろうか。
そうであれば、女の方が独占欲、支配欲は強いことになる。
これは、一般の社会現象としては、全く逆に見える。
配偶者以外の女性。
昔はお妾さんとか2号さんとか「女」と言うのは男の甲斐性とか言って、意外に一般社会ではスンナリ受け入れていたように見えるし、昔は一夫多妻とか身分の高い権力者達は、かなりの数の女性を独占していたようである。

江戸時代の将軍様は大奥とか言って千人もの女性を堂々と囲っていたワケであるから、北朝鮮のチリチリ頭の将軍サマなど足元にも及ばない、大規模な「喜び組」を組織的に制度化していたと考えられる。

こういうことができるのも、実は性的には男は女ほど嫉妬深くないからだと思える。


「女は世界でアナタだけヨ」というワケではなさそうであるから、そのような荒っぽい男女関係のシステムを作って平然としておられる厚顔無恥でアバウトな性質を男が持っている証拠と言えるのではないだろうか。

恋する男の対象は必ず世界でたった一人の女性である・・・筈である。
だからこそロマンチックな恋の物語も生まれるし、悲劇も喜劇も生じる。

女はさらにそうなのであろう・・・と思う。
想像であるが、何年もたった一人の男を独占しようとして嫉妬する。
しかし、そうは言いながらも現実適応的であるのが女性の特徴だ。

貧乏学生を捨てて、金持ち男に走る女を責める「金色夜叉」という小説の名場面は古今の男女の物語の極めて普遍性の高い、女の現実性への多少安易ながらも切実で差し迫った心情をうかがわせる。

リッパな男は「金色夜叉」のカンイチさんのようにそういう女性を簡単に責めてはイケナイ。

女性は甲斐性ある男性を独占しようとする本能があるからだ。
最近そうではない、つまり甲斐性はないけれど、美しく性的能力もイヤに強い「ただの男」を好む、強者(ツワモノ)の女性も出現しているが、やはり異端であろう。

そのような女性の手記とか告白記などを読むと、女性への性的好奇心がイッペンに減退してしまう。
何故ならば、そのような女性には性的な独占欲と現実適応性への性向の葛藤が全く見受けられず、「恋」がただの性欲の発露と解消のみに限定されて、人間としての生々しい物語性がストンと見事に欠落しているからだ。

ロマンチックな恋には必ず物語がいる。
それは葛藤であり、苦悩であり、煩悩である。

戦争も飢餓も、身分の差異もなくなり、男女の間に障害なくなった現代に「恋」を描くには「不倫」しかない・・・と「愛の流刑地」とか「失楽園」とかのベストセラー小説を著してくれた渡辺淳一氏が明言されていた。
そうかもしれない。

恋には嫉妬はつきものだ。

「アナタだけは独り占めにしたいの」

こういうところが私はあまり理解できないので、いつも不粋な男と思われているし、女性との議論も大概物別れに終わる。
人並みに恋はする。
そして嫉妬で苦しむ。
ただし、嫉妬は長続きしない。

他の女性に意識や欲が流れるワケではない。
ただ、独占欲があまりない。
だから恋が終わったと思われるが、決してそういうワケではない。
恋も人生の時間の流れの中のひとつの思い出深く楽しい病気の期間であると考えているし、この世の中で確実に独占できるものなど無く、ただの相手の存在を確実に脳裏に刻み込み、自分の人生の重要な登場人物として鮮明にありありと想起できるようになった時には、嫉妬と言うもののない恋が始まっている。
けれども、女性にこのことを伝えてもナカナカ理解してもらえず、理解してもらった時には、その恋は残念ながら終焉を迎えている。

いつも嫉妬はしている。
あまりに嫉妬深く、心理的防衛としてこのように考えるようになったのかもしれない。

恋における嫉妬の苦しみは並大抵ではない。
死んだ方がマシだと思ったことが何度かある。
ただ、この苦しみを乗り越えた後からの恋のある人生は、まるで遊戯三昧。
楽しむだけのパラダイスへと変容する。
実際に何も変わらなくても・・・。

ありがとうございました

追記
嫉妬の終わりは恋の終わりに見えるが、それはマチガイである。
恋焦がれると言うのは嫉妬のないのに大いにあると思える。
そこに純粋な愛があれば・・・。
特に男性ではありそうだ。
他の男に走った女性を憎むと言うのは、支配欲、独占欲、つまり欲望と愛を混同しているケースではないかと考えている。

たくま癒やしの杜クリニック
M田朋久


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