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■ 因果応報 | 2008. 4. 2 |
これは宇宙法則だそうな。 エネルギー不変の法則というのと少し似ている。 まさに因果は巡る。 悪因悪果、良因良果である。 善とか悪というものを、他に(宇宙に)押し出せば、それは巡り巡って自分のところに返ってくる。 自分に返らなくとも、子供や子孫に返ってくるらしい。 まさにエネルギー不変、物理学と思えば良い。 諺にもある。 積善の家に余慶あり 積不善の家には余殃あり 先祖の善行が現在の自分の慶事(よろこびごと)を産んでいる。 余殃とは悪い事、災いのことである。 不徳の積み重ねはやはり、良い結果を生じさせないようだ。 一時的には盛運でも、晩年は惨々というのは世の中を見まわすと数限りなくある。 こういう場合、何かの不徳の積み重ねが、故意か不注意か無意識かで、その人物か組織に存在するケースが殆んどである。 個人的に「不徳三ショウ」と呼んでいるのが 1)中傷 2)自傷、他傷 3)訴訟 というものだ。 上記はいずれも他の人をおとしめる行為と言える。 つまり、動機の如何にかかわらず、他者を攻撃することになるからだ。 斉藤一人という、結構有名な全国長者番付け常連の「お金持ち」の、金持ちになりたい人への助言がふるっている。 相対している人に「この人になだれのように幸せなこと、良きことが起こりますように」と祈るというのがある。 どうも「他者の幸せを願う」というのは自らの幸福と豊かな人生への大事な要件らしい。 自己啓発書とか成功哲学書とかいうジャンルの本には8割方このことが書いてある。 実際に自分の行為や言葉で、その他者の幸福が実現したとすると、その人が喜ぶ。 その結果、大概の人は自分のことが好きになる。 好かれるから何かをしてもらえる。 ・・・というような程度の低い理屈ではなくて、「純粋に祈る」というのがミソのようだ。 つまり「まごころ」というヤツですネ。 「祈り」とか「まごころ」というのは天に通じるらしい。 昭和の哲人の中村天風の説によれば、人間の心と宇宙霊(宇宙のエネルギーの根本主体)とは、常に微妙に応酬しており、「祈る」という行為には、それこそ絶大な力があるらしい。 このようなニュアンスのことは、マザー・テレサなども度々口にしている。 怨む、憎む、嫌うというような「心の動き」ですら、そのような調子であるから、他人をおとしめるための中傷、つまり言葉でもって人を窮地に落すというのが、いかにその中傷した本人を不幸にするかお分かりであろう。 他傷というのは、説明不要でしょう。 自傷行為というのも結構良くない。 自分が親や神様になったつもりで、「自分の子」を見てみたとして、自殺してしまったり、自分を傷つける行動をしたり、罪悪感や自責の念で苦しんでいる姿を見て、果たして嬉しいであろうか。 モチロン中には根っからのサディストの人もいたりして、断言はできないけれど、概ね自分を傷てける人を見たら嫌な気分になるものだ。 訴訟事が良くないというのは、あまり知られていないが、マジメな占いの本には必ず書いてある。 或る被害を受けた人が、その加害者と思しき人物や組織や国家などを相手に法律でもって戦いを挑むのを「訴える」とか「訴訟する」とか「裁判をする」とか表現するが、一部の営利のみが目的の弁護士さんを除けば、周囲は迷惑千万であろう。 モチロン、世間のイメージとして弱者が強者に対して行うのが訴訟のようであるが、物凄くカワイソウで同情すべき人々も多くいて、「訴訟する」意外に打つべき手段が無いという例もあって、この理屈も絶対でではないけれど・・・。 しかし、人生全体を見渡してみて、たいしたことではないと思ったらサッパリと諦めてしまうのも、ひとつの賢明な方法ではないだろうか。 人生の大部分を裁判に費やしている友人もいるが、彼にはのどかでやすらかな幸福なひとときは、ほんの一瞬しかないように見える。 多くのいわゆる「立派な人」というのは、従容自若と言って、運命にはあまり逆らわず、それをありのままに受け入れ、観察し、どのように対処するかはよく熟考し、決断をする。 そのような時のひとつの判断基準として 因果応報 積善の家 従容自若 というような古(いにしえ)の人々の言葉や理屈は大いに参考になると思う。 追記@ 常に結果に対して責任を負うという矜持と覚悟があれば、良い意味で人々への怨みつらみなど、どうでも良くなるものだ。 人間の最終ゴールは、100%死である。 富者も貧者も、賢者も愚者も、孤独な人もそうでない人も、成功者も失敗者も、それは極めて厳格に正確無比におとずれる。 そういう意味では因果応報もヘッタクレも無いが、自分の子孫や周囲へのはた迷惑はできれば避けたいものだ。 追記A 「他者を富ませる者は、自らも富む」 事業家であるなら肝に銘じておく言葉だそうだ。 お客さんをはじめ、取引業者、社員さん、等々周囲の人々を豊かに幸せにすることで、その事業が成り立つ。 事業(会社)を経営者(事業家)本人、自分だけが儲ける、儲けようというような意図のための道具と考えている人が増えているそうであるが、これはうまくいかない。結末は見えている。最近の企業のさまざまの不祥事がこのことを如実に物語っている。 ありがとうございました たくま癒やしの杜クリニック M田朋久 |