コラム[ひとくち・ゆうゆう・えっせい]

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■ 自己正当化の危険性について2008. 3.31

今日は、或る衝撃的な出会いがあってこれを書いている。
「出会い」と言っても、ただの本である。
私の場合、人と同じように本も出来事も出合いとして捉えているので、このように表現している。

正論とか公論とか言う雑誌も出ていて、こうして筆を執ってモノを書いていて陥る罠が上記のような大問題である。

何故大問題かというと、モノを書くと言う作業には、自己正当化とか自己欺瞞というものが潜在しているのではないかと思えるからだ。
そのことに気づいて我ながら強い衝撃を受けたということである。

自己正当化、自己欺瞞というのはとても怖い。
それは自分も苦しめ他人も苦しめる。
その上、自分は甘い蜜のようなしびれるような「喜び」を感じることもあり、さらに危険である。
自分を正当化して、自分の観念とかの「思い込み」の中から、他人や周囲の世界を見ると何かしら優越感や自己満足が生じ、結構心地よい。

他人の悪口や愚痴、泣き言、不平不満というのは、言ってる本人も聞いている方も意外に気持ち良かったりするものだ。
「そうだ。そうだ。」「そのとおり。」なんてネ。
自分の正当化を強化してくれる聞き手や集団を好むので、さらに始末が悪い。
反対や反駁する人を遠ざけたり、無視したりするのはまだしも、時に苛めたりすることもあり、とにかくやっかいである。

「自分は間違っているのではないか?」

これは人間の生活にとって極めて好ましい問いだ。
人生というのは、ズバリ言って人間関係のことである。
「自分は何か間違っているのではないか?」と自問しつづける人間は恐らくよく自省、反省するであろうし、謙虚に人の話に耳を傾けるであろうし、すぐに謝ることもできるどあろうし、よく勉強もするであろうから、とにかく自己成長のためには良いことづくめだ。

一方、「自分は正しい」と言い張る人は、それこそ自己を正当化しなければならず、人を責めなければならず、世の中や世間や多くの人を批評論評しなければならず、張り合わなければ、他者と争い続けなければならない。
緊張と不安の連続だ。
時には皮肉なことに「自分の正しさ」の証明の為に嘘までつかなければならない。
ホトホトご苦労なことである。

戦争と言うものも、集団としての「自分の正しさ」の押し付け合いの結果生じるものだ。

正義漢とか正義感の強い人というと、聞こえや耳障りは良いが、他人と喧嘩や衝突する愚かな人とと呼べなくもない。

このように書くと、自分自身も「正しさを主張する人は好ましくない」と決めつける自己正当化、正論を書いていることになるから、これまた用心しなければならない。

このような自己正当化、自己欺瞞から逃れる方法は、
1)まず、優越感も劣等感も捨てて、自分や他人をありのままに公平に見ることである。
2)そして、人を自分にとって都合の良い「モノ」「道具」ではなく自分と全く同じ価値の「人間」と思うことである。

このように思っていると、とても気楽で愛に満ちた安らかな気分になる。
全ての人々が、争いや口論や競い合う対象ではなく、モチロン戦う敵でも味方でもなく、同じ時代を共に生きる仲間、真の意味の同胞であることに気づかされる。

愛にとっても最も遠い感情である「恐れ」も、ひょっとしたら取り除くことができるかもしれない。
恐れというのは、ナカナカ手強い感情であるけれど・・・。

ありがとうございました

たくま癒やしの杜クリニック
M田朋久


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