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■ 「人のせい」にすることの有害さについて | 2008. 3.24 |
このことは意外に知られていないことを知って、あらためて筆を執っている。 「人のせい」とはどういうことかというと、まず「自分は無力である」ことを証明しようとしている。 そして「自分は被害者である」ことを言い立てている。 その結果「人を責める」。 つまり「他罰的」である。 その上「自らは成長しない」と決めているということもある。 自己責任というより、他者責任という立場に立つので現代の社会ではとても生きにくい。 今は政治でも経済でも自己責任を世界中で謳っている。 自己責任という言葉は必ずしも悪い言葉ではない。 社会全体で弱者への冷淡さというイメージはあるが、個人としては好ましい考えだ。 他人を責めて、他者を罰して一体何が得られるというのだろうか。 その個人が損害賠償とか慰謝料とか告発とか訴訟とか考えているのかもしれないが、運気的には不徳の最たるもので、その人をあまり幸福にはしない。 自分が無力で被害者で哀れむべきカワイソウな人間という存在に「成り下がってしまう」という現実が、多分理解できないのであろう。 多くのメディアの情報や歴史からもそのような立場に立とうとする人々の結末が少しも成功や幸福や豊かさへ導かれていないことを知ることができる。 子供はよく他人のせいにする。 それは、親や教育者の責任とも言えるが、ごく幼児期には元来子供は自己中心的であるので、自分にとって不利な状況に陥ると「他人のせい」にして自分を守ろうとする・・・というより自分を正当化して親や他の大人や友人達からの非難を本能的に逃れようとする。 時には嘘までつく。 これは或る意味、自己防衛の手段を身につけたということでは成長とも言えるが、この理屈とか「やり方」は大人の社会では通用しないことを、実は親がシッカリと教えなければならない。 もしくは自分で書物やら何かで学ばなければならない。 現代の社会では、この事実・理論は意外にも誰も教えてもらえない。 TVも教えないし、親も教えず教師も教えない。 みんながみんな被害者意識を持って他罰的で他人や社会のせいにして平気で生きている・・・というような気がする。 世間やマスコミは、他人の非難が得意であるから一般の大衆もそれに乗せられてしまうようだが、シッカリと自分の足で立とうとする立派な自立した大人は決して「他人のせい」にはしない。 真の意味の「大人(タイジン)」はポストが赤いのも「自分のせい」にする。 会社であれば、社長というのは全社員はおろか全顧客、関わった社会全体に対して責任を持とうとする。 責任は執れないけれども自分のせいではないかと疑ってかかる。 そもそも社長の仕事は責任を執ることが最も大切で方針を立てることや、visionを持つことよりも重要である。 それこそ重い職責である。 成熟した大人であれば、以上のことをよく理解して子供や後輩や、部下や未熟なパーソナリティーの人間にこのことを伝えなければならないが、現実には残念ながらナカナカ伝わらないことが多い。 もともと一般大衆とか庶民とかは「自称」する人々は被害者意識が強く他罰的で、無力無知な存在であると仮定するなら、悪く言えば自罰的で、加害者であるほうが強く逞しく存在できる自立した人間と呼べるかも知れない。 交通事故の被害者、加害者を例に取れば、歩道を歩いていたり、横断歩道を青信号で渡っていて、暴走運転の車に轢かれたとしても「私は被害者だ」とわめきつづけるよりも、自分がソコに存在し、遭遇したという存在論的、運命論的な意味づけをする方がはるかに建設的な気がする。 まして、運転している車同士なら、過失の割合が100対0などということは警察や裁判の立場ではあるかもしれないけれども、大いなる宇宙の哲理からすると、そんな割合は絶対無いと思える。 第一に車に乗っていたり、運転したりしていたのだから、クルマ社会の一翼を担うという責任と危険性は承知の上だろうから。 他の例なら、離婚の訴えなるものもあるかもしれないが、そもそも最初にその人を選んだ責任ということをどこかに吹き飛んでしまったかのように忘れてしまっている。 今の世の中で、略奪婚とか強制的結婚とかは無いはずであるから、奴隷のように連れて来られたワケではあるまいに、真実のところは加害者も被害者も存在しないのが離婚とか結婚の真実の姿ではないだろうか。 一方が精神的に苦しめられたと被害者的に言い立てるのは結構だが、大概このような場合でも相手方も苦しんでいるケースが殆んどであるし、精神的には五分と五分というのがスジであるように思う。 法律とか倫理とか道徳とかは、多少そこにズレや矛盾があるが、それらとは関係の無い、幾分哲学的に個人的に結論を述べれば、「人のせい」にしようとするその個人は、自分の存在価値を自らおとしめているばかりでなく、他罰的になりやすいという理由から、人に疎んじられ、避けられ、現代の社会では誠にに生き難いであろうと思うのだが・・・。 重ねて書いておきたいが、君子・大人というのは「地球が青い」のも自分のせいと考える。 それは自分が青いと認識していることの方が、実際に青いかどうかより重要であると考えるからだ。 つまり、「自らの思い方、考え方」の方が世間で言う真実よりも、人生ではるかに重要であると考えているからだと思う。 そういうわけで、賢人は決して人のせいにはしない。 ただし、色々な事柄の判断・裁定する立場にあれば責任の所在を明らかにしなければならない状況はあるかもしれないが・・・。 ありがとうございました 追記@ 「あなたのせいで・・・・」 このセリフほどガックリ来るものは無い。 この言葉を他の言葉に言い換えるならこうだ。 「私の存在はとても不安定で無力で、あなたにとても深く依存しています。だからあなたの言動や一挙手一投足で哀れで無力な私は風に舞う枯葉のようにはかなく地に落ちてしまいました。あなたゆるさない。何とかしてください。」となる。 私の場合は、他人の言動、行動で自分が傷つくのがまっぴら御免であるから、他人の言動、行動などで、無益なものは聞き流すようにし、厄介な人々とは離れるか逃げておくようにしている。 卑怯なやり方であろうが、他人を責めて生きるか、自分を革新し、成長させて生きるか、もっと言えば他者を変えようとするか、自分が変わるかは自分で決定したい。自分の人生であるから。 「他人と過去は変わらない」 心理学の黄金律、ゴールデンルールだ。 たくま癒やしの杜クリニック M田朋久 |