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■ ほんとうの地球環境問題 | 2008. 3.11 |
多くの人々は、環境を、他者を変えようとして自らの心を変えようとはあまり考えないように見える。 たとえば、夫婦関係や職場の人間関係でも、大概心の矢印は相手の言動、行動に向き自らの心の態度には考えを及ばせない。 夫や妻や子供や、上司や同僚や会社や、果ては国家まで変えようとする。 そんなものは殆ど絶対に変わらんのに。 この場合、最も変え難いのはお互いの配偶者、夫や妻の心である。 親や子の心などさらに変わらない。兄弟は意外に変わるが、他人よりも激しい利害関係、たとえば親の遺産相続問題で揉めようものならまっ赤な他人の方がはるかにマシだ。 クールな大人で対処できる。 「他人の心」を変えようとするより、まず「自分の心」を良きモノに変えることだ。 まず「心を変える」と決断したら、或る意味とてもカンタンだ。 地球環境問題の本質、つまり二酸化炭素のよると言われている地球温暖化(化石燃料の燃焼によって生じた)や、資源の枯渇問題、食料問題等々すべて人間の問題だ。もっとつきつめれば人間の心の問題だ。 全ての人間が、自分たちの作り出した便利さや、贅沢やあくなき貪欲さを少しだけでも制御して、文明をより物質から精神や内面、心の平和に向けさえすれば、容易に解決するような気がする。 もう人間の欲望には歯止めがきかないのであろうか。 人類が欲望満足の追求に邁進した結末が自己の破壊だったとは、個人の歴史でも振り返ってみれば意外に説得力のあるひとつの法則である。 「人は自らの好きなもので滅ぶ」そうだ。 人類は大昔から狂っていたのかもしれない。 少し綺麗だからと言って、ただの石コロに数億円のお金を投じ、近所の貧しい人々への数千円の寄付さえ惜しむ。 何億円か知らない高級マンションに住み、世界中の貧困と紛争を映し出すテレビを見ながら、平然と高級ワインと豪勢な御馳走を食べられる人々を「無神経」とも「鈍感」とも現代の社会は言わないで、セレブなどとモテはやす。 先進国の文明人は、発展途上国の貧困を作り出しているかのように見える。 アフリカや南米の奥地に住む人々は実際貧困でもなんでもなかったのだ。 富める人々から眺めた「貧困」なのであって、あくまで相対的なものと思える。 アジアとアフリカの最貧国、ソマリアとネパールに20年前に行った時の感想だが、今は明らかにそれらの国でも先進国の文明に毒され、自らの生活が貧困ではないかと騒ぎ出し、文明国の作り出した異様なファッションと、騒がしい生活様式を良きモノと勘違いして取り入れさせられ、精神の大混乱をきたしているようだ。 日本と言う国は、為政者でも貴人と言われる人々は、昔から概ねつつましく暮らしたものだし、江戸幕府の創始者徳川家康も少なくとも食事については粗食であった。 マルクス・アウレリウスをはじめとするローマの五賢帝も、帝王学として質素な生活スタイルを学んでいた。 今はどうであろうか。 テレビで見せる富める人々の贅沢三昧や奇妙キテレツな生活ぶりを見せられると、思わずヘドが出そうになる。 最近は自分もどうかしている。 どうも文章がネガティブだ。 用心 用心。 ありがとうございました。 たくま癒やしの杜クリニック M田朋久 |