コラム[ひとくち・ゆうゆう・えっせい]

コラム:ひとくち・ゆうゆう・えっせい

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■ 岸壁の母2008. 3.10

今の若い人は、殆んど知らないであろうが、かなり有名な昔の歌である。
戦争中にシベリアに抑留された、日本人の帰りを待つ母親の姿を歌ったものである。
昭和20年代には、大陸やら南方やらから多くの日本人が、故国をめざして帰還していた。
当時は、殆んどが船である。岸壁とは港の波止場、船着場のことだ。
今でも北朝鮮による拉致被害者の親の人々に重ね合わせることもできる。全く意味合いは違うが似たところもある。
昔の講談モノでも親子の情をモチーフにした物語は多いが、現代では親子の同居や密着による心理的な葛藤、苦悩の方が多い気がする。
このテーマは何度も書いてきたが、さらに書きつのっているのは、毎日毎日患者さんが親子の問題で来院されるケースが多く、殆んどすべての人に当てはまる、ひとつの仮説であるので、ここに改めて記してみたい。

普通抱きあって寝ることができる大人は、異性同士である。
さらに言えば赤の他人である。夫婦ももとは他人であったはずだ。
つまり、大人になってもお互いに抱擁するくらい親密でいられるのは他人であり異性であるということになる。

こういうワケで、時々はあるかもしれないけれど、同性や親子や近親者同士の深い親密な関係というのはやはり異端ということになる。
だから、母子密着・父子密着というのは一見うるわしい家族愛のように見えるが、生命の自然の摂理からすると極めて「不自然」なことなのではないだろうか。

幼い子供はとても可愛い。
特に小学生までは、抱きしめて頬ずりしたくなる程可愛い。
自分の子供なら尚更だ。それが、中学生や高校生になると、可愛いのは可愛いが近づいて抱きしめたりすることには抵抗がでてくる。これが同性でも異性でも一般には常識的な感覚であろう。

近頃は、親子の近親姦、性的虐待なんてのもタマにあるらしくヤヤコシイが、姦とか虐待というくらいで異常事態には変わりはない。
これらの感覚、事実はいったい何を示しているかというと、やはり親子には一定の時期がきたら、離れなさいヨ、さらには、他の異性を見つけて家族をつくりなさいヨ
という大自然のメッセージであろうと考えている。

・・・であるから、大人になったかあるいは、早熟な子供なら思春期以降は、親に逆らい、離れようとする。これに異性への強烈な性的欲求が精神的なエネルギーとして加担し、母子(父子)の分離が起こる。
この時に、これまた強烈な分離不安が起こり、精神的に親子共に大混乱を起こす。
ムズカシイ嵐の時期だ。

この時期の離陸に失敗すると後々ヤヤコシイことになるが、本人も周囲も全く自覚がないことが多い。

最近では、この辺りの家族のやりとりや葛藤を解決するようなテレビドラマ、いわゆるホームドラマがなくなってしまい、益々、子供達のモデルとなるような立派な家庭人や大人に出会わなくなり、その上に自分の父親や母親に対する悪口や侮蔑などが、家の中に蔓延している場合だと、益々子供達・少年達のアタマの中は混乱する。

私の持論ではあるが、胎児期や幼児期、せいぜい3才までに言葉やスキンシップでよ〜く可愛がったならば、後は出来るだけ家から追い出すくらいの荒れた家庭環境の方が、或る意味子供にとってはシアワセなのではないだろうかと考えている。
何故ならば、容易に家や親から離れることが出来るという意味で・・・。

いわゆる母子家庭からの旅立ちで、社会に押し出した近所のおじさんとの美しくも厳しい、擬似親子関係の理想的姿を描いてあるのが、イタリア映画の名作「ニューシネマパラダイス」だ。
父親との愛情関係と、社会へ導かれ母親との愛情関係。
家庭人として存在する私の場合、父親との関係は一見成功しているかに見えるが、母親との関係がイマイチだったのであろう。
家庭人としては惨憺たる結果となっている。
個人的には、全く苦悩苦痛は無いが、少しは家族の尊敬を勝ち得ているようにも思えるが、勘違いかも知れない。
時には激しい非難を家族から浴びている。
いずれにしても自分でも良き家庭人とは言い難いように思える。ヤレヤレ。

まとめ:親子は早く離れましょう。
    兄弟も出来れば離れましょう。
    争いのもとです。
    岸壁の母
    船上や外地の息子、娘
    お互いに遠く離れていて、想い合うのが常態で、ヒシと抱き合うのは一瞬で変奇であると思うのが、健康的な心理的態度と考えている。

ありがとうございました
M田朋久


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