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■ 泣き崩れる | 2008. 3. 7 |
最近はこんな表現は、テレビの航空機墜落とかの大事故か大地震かで、家族を亡くした人の情景を伝えるアナウンサーの言葉でしか見かけなくなった。 「泣き崩れる」のはやはり普通女性であろう。 片手を畳について、胸を押さえながら、髪をかきあげながらうつむいて涙をポタポタと流す姿とか、両手で顔を覆ってさめざめと泣くか、布団に顔を埋めて嗚咽(おえつ)するとか、女性の涙する姿は、とてもはかなげで、いじらしくて、結構美しいものであると思うのだが、最近はめっきり見かけなくなった。これは日常でもテレビでも映画でも同じである。 この「泣き崩れる」は現実に見たのは3年前に1回きりであるが、そのことを述べるのは色々な意味で今は差し控えておきたい。 近頃は本当に、美しく泣き崩れる女性が減ってきたように思う。 昔の映画では、原節子と田中絹代とか、多くの美しい女優さんが、何とも情感豊かに、体全体で悲しみを表現し、それらが結構サマになっていたように思う。 自分の感性の単なるアナクロニズム懐古趣味だけなのであろうけれど・・・。 女性は強くなったと言われるが、もともと強く逞しいのが女性なのだと思える。 男達はまた随分と、さらに弱くなった。 ジェンダーフリーとか、男女共同参画社会とか、男女同権とか、思想としては多少理解できるが情緒としては、受け入れがたい。 男は男らしく 女は女らしく そこに多少無理や作為があったとしても、日本の文化としてのこだわりとか、未練はある。 「男らしさ女らしさ」といった場合にそれを、男女のどの気質行動様式に求めるかは、専門家や人それぞれの感性にゆだねるとしても 男は男であることの証し 女は女であることの証し 究極的な差異は子供を産めるか産めないかとなる。 だから男には守るべきものがない。 だから逆説的に他者、特に子供や女性を守っていくというのがひとつの男らしさというか美意識になるし、一方女性は、自分の子供を守る為に、強く逞しくある必要があるが、強き者、つまり強くて優しい男性に守ってもらう必要があるので、或る意味で弱さとか柔軟さ繊細さを演出する意図があって、女らしさというものが女性に求められているのではないだろうか。 女性もまたそれが性に合っていて生活文化のひとつとしてそのように媚態として長いあいだ、自然に無意識に演じていたのかもしれない。 ・・・けれども昨今は女性の社会進出や自立、経済的豊かさのためか、テレビを中心とするメディアの発信する別の意味の作為のために、 「女らしさ男らしさ」の、形態とか本意・意味が薄れてきて、ただのファッションとか性的欲望の現れとしての原始的な「らしさ」しか、うかがえなくなったような気がする。 このようにして「泣き崩れる」女性、「泣き崩れそうな」女性は日常的には絶滅しつつあると同時に、図々しくふてぶてしく廉恥のない女性はどんどん増殖して世の中に態度や所作の美しい女性はメッキリ見かけなくなった・・・ような気がする。といううより、昔ながらの「女らしさ」の文化がただ変容しただけかも知れない。 今は、性的にも現世的にもイヤに生命力の強い欲張りな女性が、少なくともメディアや雑誌ではイヤに目に付く。 本当には、多くの日本人の女性は今でも「ヨヨと泣き崩れる」ようなしおらしさ、はかなげさの表現できる、多少無意識的で打算的な美意識とアタマの良さ、したたかさを持っているように思えるのですけど。 ただし未だに男たちを中心とした一般社会では、女性の強さをあまりにオモテに出してしまったがために、女性の涙も単なる「泣き落とし」と見なされて、結果を出せないことが多いかも知れない。 「泣き崩れる」練習とかがセミナーかなんかであったりしたら、面白いかも知れない。 読んでいただいてありがとうございました。 たくま癒やしの杜クリニック M田朋久 |