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■ 医者の仕事について | 2008. 3. 5 |
徒然草にも出てくるが、やたら元気な人は、友人に持たない方が良いと思う。 モチロンかかりつけのドクターもどちらかというと色々経験も苦労も病気もしたことのある、どちらかというと「体の弱い人」が良いという気がする。 何しろ自分のことだからよく勉強するであろうし、経験があるので、病者をいたわることもできるのではないか・・・と思える。 順風満帆で何の苦労も無く医者になった人は、あまりこの職業に向かないのではないかと考えている。 ところが、医者の資格というのは、今ではとても難しいペーパーテストが課せられていて、それを突破する為には、激しい勉強をする必要があるので、余計な行動は慎まなければならず、勉強以外の苦労体験、人生経験はどちらかというと薄弱になってしまう人が多いのではないだろうか。 何人かの医者の友人はそうでもないが、特に国立大学の医学部を出たエリートの人々はそのような印象を持つ人が多い。失礼ながら、どこかしら、素朴で単純なのだ。 もともと理系というのは、例えば数学や物理などは答えが1つであるから、そういうアタマになるのであろうけど、筆記試験そのものが、ひとつの答えしか要求しないので、多面的にモノを考えるのはできるかも知れないけれど、解答してしまったら、そこで満足してしまう単純なアタマの持ち主になってしまうのではないかと思える。 心療内科という科をしているせいもあるが、「人の心」を診るようになってからは、答えはひとつとは限らないし、或る意味、無限の答えがある可能性もあると思える。そもそも答えなど、必要ない患者さんも時々おられる。 先日、くすりの問屋さんの依頼があって、営業セミナーみたいなものをさせていただいたが、ドクターは薬の販売員(セールスマン。今は、MR。薬剤情報提供者と呼ぶらしい)にどんなことを求めているかと、受講した人に尋ねてみたところ、予想どおり「薬の情報」とか「薬の値段」とかと、何のためらいもなく解答されていた。 実際に営業マンの方に、「親しくしている先生は、アナタに何を求めていますか?」と改めて問うたところ、少し考えて「話をしたいのではないか」とか「信頼関係を築くこと」であるとか「ゴルフの道具の話や予定のこと」とか、結構クスリのセールスに関係の無い「答え」が多かった。多分ホンネであろう。 ドクターは、薬の営業マンに何を求めているか? この問いに対する私の答えは、「さまざまである」「それぞれである」というものだ。 これは、患者さんとドクターの間にも当てはまる。 社会一般には、当然視されていることであるけれど、患者さんの医者への期待というと 「病気を治して欲しい」「痛みみを取って欲しい」 というのはセンターピン。つまり、最優先事項と考えられることは当然のこととしても、時々は 「話を聞いて欲しい」「慰めて欲しい」「先生に会いに来た」「看護婦さんに会いに来た」 とか、その本意はマチマチであるし、中には 「保険金が欲しい」「仕事を休みたい」「家事をしたくない」「夫(妻)と離れたい」「学校を休みたい」「家庭内暴力の証拠が欲しい」 もっと極論になると 「死にたい」という人もいて、睡眠薬を少しずつもらってはためて置き、大量服薬で自殺をはかるヤバイ人までいたりして、本当に患者さんの意図は解らない。 最近のアンダーグラウンドの世界では、医療機関というのは狙われているらしい。 何らかの良くない意図を持って来院する輩もいると、警告している雑誌もある。 非麻薬性の鎮痛剤の中毒者とか、睡眠薬や、ED治療薬バイアグラ等を、裏社会で大量にさばこうとする悪人もいるらしい。 とにかく相手の意図はさまざま、マチマチであるから、答えはひとつではない。 というのは、自明のことなのに・・・。 私の友人の耳鼻科のドクターは、 「人間は健康で長生きしたい筈だ」とか 「親は子供を思い愛する筈だ」とか 「病院は病気を治すところで余計なことはしないところだ」と頑なに、言い張っておられたが、「お説ごもっとも」と答えてはおいたが、このドクターも現役で、国立大学をスムーズに卒業した学業成績の優秀な「アタマの良い」先生であった。 自分のしていることに何の疑問も持たないので、或る意味、シアワセであるけれど、何となく失礼ながら素朴すぎるような感じがする。 医療関係者というのは、終来期医療、例えばホスピスとか、緩和ケア(癌の患者さんの病みや苦しみをできるだけ取り去ってやすらかな死を得ましょう)でなくとも、何らかの生命に対する畏敬とか、尊厳とか、というようなモノモノしいものでなくとも、その診療における取り組み方に何かしらの人生哲学、考え方、生き方に対する理念哲学が要るのではないかと常々考えている。 最低でも、「答えはひとつではないですヨ」くらいは、良識、常識として知ってもらいたいものだ。 今はEBM(エビテンス・ベイスド・メディスン)つまり、根拠にもとづいた医療を推進しているようで、この病気にはこの治療、この病状にはこのクスリみたいに決めてしまう傾向が出て来ているから、ますます医者が「アタマを使わない」システム、考え方ができつつあると思う。 一番 身近な例であるが、インフルエンザという病気が流行っている場合、インフルエンザの検査キットを使って、簡単な検査をして、陽性と判断されたらカロナールとリレンザ、もしくはタミフルという決められたクスリを処方するだけであるから、これなど小学生でもできる一連の手順作業だ。 高血圧とか、糖尿病とか、高脂血症、肝臓病などもEBMなる治療方針が決められてしまったら、医者の仕事などサルでもできる。検査も決められ、投薬も決められているので、コンピューターか何かにさせれば良く、医者は機械的に処方箋を書いて、看護師に指示をすれば終わりである。何も考えることも要らない。 かくして医者は、益々アタマを使わなくなり、お金のこととか、ゴルフのこととか、異性のこととか、おいしい料理とか、医師会活動とかその他どうでもいい活動にその優秀な頭脳を使い、何とかIQやEQを保っているのが現状ではないだろうか。 そして、時々は大きな大学病院や、専門病院で「ホラこんな難しい病気、病状を治療して完治させたぞ」などと偉そうに発表したりするものだから、別のタイプのアタマの良い医者などもいて、尚一層、始末が悪い。 何故ならば、そういう事実を持って日本の長寿社会を支えてきたのは、我々だと医師会や一部の医者がのぼせ上がってしまうような気がするからだ。 どんな職業でも言えることだが、身分や地位や収入が増えるほど社会的責任も増えると同時に「謙虚さ」「誠実さ」も高めていかなければならないと考えている。 われながら「偉そうに」と思うが何となくメディアの「医者たたき」にも、このあたりの感情感覚的ものが根拠がありそうに思える。 まさに「実るほど頭を垂れる稲穂かな」である。 日本人が長寿なのは、洗練された医療の制度の存在と同時に、日本人の生活習慣、食生活、環境、気候、遺伝等、日本人全体、国家全体の総合的ポテンシャルの高さがその主な要因で、医者の力だけでは決してないと思う。 多少、自虐的に聞こえるかも知れないが、これは全くの本音である。 ありがとうございました。 追記 何だか医者の悪口みたいな文章になってしまったが、多くの大部分のドクターは真面目に誠実に一生懸命日夜、命を削って仕事をしておられるし、医者の絶妙な技術と懸命な努力とでそれこそ命を助けられたり救われたりする人々も数多くいて社会や民衆から尊敬されてしかるべきであるが、だからこそ逆に身を低くくしておく方が安全であるし気軽であるような気がする。・・・。自らの「弱点」や「盲点」に意識を向けてよく深考するためのヒントになればと思い勇気をもって自分自身の自戒を込めて一筆してみた。 たくま癒やしの杜クリニック 浜田朋久 |