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■ 愛について(1) | 2004. 8. 1 |
暑中お見舞い申しあげます。 猛暑が続いています。皆様いかがお過ごしでしょうか? 今回の表題も夏に似合わず、暑苦しく重いテーマですね。申しわけありません。或る患者さんのご提案でもありたびたび、というより最も人生の本質に近い重要なテーマでもあり、避けて通れない問題ですので、勇気を奮って、数々の著名な同様の著書をもあまり考慮に入れず、少し書き綴ってみたいと思います。 「愛とは、愛されることではなく、愛することですよ」 高村光太郎の言葉です。 理屈の上では、或る程度理解はできるものの、人間ってやはり弱いものです。みんな甘ったれで、どんなことでも、どんな自分のわがままや欠点でも全部丸ごと受け入れてくれる人が大好きで、みーんなやはりそんな風に「愛されたい」・・・のではないでしょうか? 子供は親に 夫は妻に 妻は夫には当然のこと。 政治家や、芸能人は勿論のこと。実業家や商人も多くの人に「愛され」なければ、或る意味で存在し得ない。そもそも人間の存在自体、多くのさまざまな「愛」に育まれて初めて、成り立つものだ。 だから人間の存在に、考えを深めると必ず「愛」という問題にに突きあたる。 神の愛、自然の愛、大宇宙の愛。その無償さには、いつも「こころうたれる」。そんな高尚なことはともかく 通俗的な「愛」というとやはり 殆ど人は、こころの底に、人間同士の非常に依存的な甘い「愛」を求める切なる欲求は誰でも抱えていて、それこそたくましい厚い胸や、柔らかい膝枕で自らの思いのたけを、泣きながらぶちまけてみたいと思っているのではないでしょうか? そういう欲求は極めて人間として自然なことではあるけれども、そこから生まれる「苦しみ」、つまりそのような甘ったれた欲求を受け入れてもらえなかったときの「見捨てられた」ような寂寞とした孤独感を何とか理性的に克服し、本当の「愛の喜び」に至らしめるための言葉が先の 高村光太郎のものではないでしょうか。 浅学ながら、一言でした。 愛とは「愛する」こと。受動的でなく能動的な分気楽ではある。ノーテンキ、能天気とはこのことか?お天気も能動的に操作できると、いや解釈できる。大体雲の上はいつも「晴れ」ではある。 つまり相手の意思意図とは無関係に「愛する」という意思は厳然と存在できる。ストーカーでは困るけれど。 何だか無鉄砲な文章になってしまいました。この猛暑のためか?(気候のせいにしている。卑怯ものめ!)請うご容赦。 ご自愛ください。 濱田 朋久 拝 |