[戻る] |
■ 沈黙のすすめ | 2008. 2.21 |
愛は多弁でなく、沈黙の中にある・・・そうだ。少なくとも、静かな人、落ち着いた人は、魅力的に見える。 会議などでも、沈黙が、多弁よりも有効なことがある。 沈黙と無表情は、ある強烈なメッセージとなりうる。 他人から見て不可解な分、さらに不気味となり、恐怖をそそる。また、好奇心、興味もそそれるかも知れない。 沈黙そのものが、巧みな言葉よりも、存在を高めることもある。 以前、書いたように「話せば分かる」とは限らないし、話せば話すほど、墓穴を掘ってしまうこともある。 多く、多弁は嘘が多い。 今は、自己主張、自己アピールの時代だそうだ。 西洋人のように、ハッキリと自分の意見を表情表現豊かに語れるほうが好まれるようになった。要するにハッタリの時代とも言える。 高倉健とか、昔のテレビドラマの「北の国からの」登場人物みたいに、訥々とした寡黙さは、今でも新鮮で素敵に思える。 奇抜なファッションと、無意味な饒舌が、世の中に氾濫している。 モチロン、寡黙な不機嫌も多い。いずれにしても、美しい会話、素敵な沈黙は、影をひそめている。 「沈黙の行」というのがあるらしい。 キリスト教系の修行である。 いったい、何を得るのであろうか。 表面は沈黙でも、心の中の言葉まで、完滅することはできない。 心の中の言葉を口に出さないという修行には、どんな意味があるのだろう。 真実は体験してみないと分からない。 修行の後、言葉に真実味、重みが出来てくるのであろうか。 表出されない心の中の言葉のエネルギーは、それが良き物であれば体の中で、良質なエネルギーに変容し、肉体を浄化し、養生するのかも知れない。 「祈り」という心の姿勢、言葉の形がある。 恐らく、これは、自らや愛する他者へ向けられた「善なるもの」にちがいない。 だからこそ、自他に良きエネルギーを放射し、自らの心身を、相貌を、美しく輝かせ、他者を明るく照らす。 逆に「呪い」という心の態度、言葉には、自他を酷く、暗い、悪しきエネルギーで包み込み、あまり好ましくない事態を生じさせる。 余談であるが、「呪い」という漢字には、口が二つもある。「品」には口は三つだ。 さらに余談であるが、あるテレビコマーシャルで、 二回言ったら、嘘になるそうだから 三回言ったら、真実になるとか・・・。 ハイはOK。 ハイハイはOUT。 ハイハイハイはOKのようだが、バカにされたような気になる。 何でもそうだが、いつでもどこでも、口は慎んだ方が好もしいようだ。 「おしゃべり」というのは、世界中どこでも不徳であり、嫌われる行動であり、失敗の元であり、大事な信用を失う典型的なパーソナリティーのひとつだ。 何かコトがあったら、まずは言い訳などせず、沈黙という選択も得策のひとつかも知れない。 ありがとうございました。 たくま癒やしの杜クリニック 浜田朋久 |