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■ エゴイストのすすめ | 2008. 2.16 |
エゴイストというと、「自分のことしか考えない人」を指すが、究極のエゴイストを目指すと、「他人のことも考えずにいられない」ことに気づく。 自分のことしか大事にしない人は、多分中途半端なエゴイストだ。理屈としては、そういう人は100点満点の50点のエゴイストと思える。 例が悪いかも知れませんが、 たとえば、自分の事しか考えない、一人の専業の主婦を想像していただきたい。 この人は、夫を大事にしないで、自分の為の買い物や、楽しみ事、たとえばエステだとか、洋服だとか、パチンコとか、サークルだとか、おいしい食事だとかに明け暮れたとする。 標準的な日本人の妻だと、早晩、まずお金が尽き、借金漬けとなる。そのうちに唯一の収入源となる夫もあきれ果て、家を出ていくか、離婚とかになる。 謂わゆる「お友達」も去っていくだろうし、数々の楽しみ事も殆んど全て喪失してしまうであろう。 今度は例えば、子供を大事にしないで、遊び呆けていたとする。5年から10年すると、子供は思春期を過ぎ、青年となり、さまざまな家庭の躾や、教育を怠った結末の、恐らく殆んどは妻が背負うことになる。 社会人として未熟なまま大人になった「子供」を持つ、年老いた母親ほど、気の毒なものはない。 逆に言うと、見事な芸術品のように精魂込めて育て上げた子供ほど、それが立派であればある程、その母親からすると、誇らしく嬉しいものはないであろう。 経時的に見れば子供。 現実的に見れば夫。 これほど、大切な人はいないのに、多くの結婚した婦人達は「お友達」とか「お仕事」とか「おつき合い」を優先させているかのように見える。 少し気のきいた人でも「自分磨き」と称する似たような行動を選んでおられるように見える。 これは夫の側の男性にも言える。 仕事を持つ男性の場合は、少し女性とは事情が異なる。 夫や父親が、あまり子供や妻ばかりに目が向くと、彼らから、煙たがられ、遠ざけられることも多いのでご用心。 やはり、男性の場合、仕事を通じて社会に貢献し、その見返りとして報酬を得て、妻子に献じることで、彼らの愛を勝ち取るというのが自然な姿であろう。 こういう場合、退職とかリストラとかされて家に居場所がないと嘆いては決してイケない。男の沽券にかかわる問題であるし、男というのは、女子供にとっては、使い捨ての自動販売機くらいに思っておく覚悟しておくと案外気軽である。 話はそれてしまったが、会社や社会に対しても、一般には同じことが言える。 会社や社会を大切に思わなかった職業人、社会人、大人は、その結果の顛末に対して、相応の覚悟をしておく必要がある。 もっと簡単に言うと、「自分のことしか考えなかった」結果として、他人(社会や会社)からの無報酬とか、軽視とか、侮りとかの事態に耐えなければならない。 まとめてみると、アタマの良い究極のエゴイストは、どちらかというと自分よりも、家族を含め、少し他人を大事にするくらいが、正しい判断であることに気づく。 少なくとも、経済的とか、形式的とか、外面的には。 きちんとと打算計算が立つと言っても良いであろう。 結果として、自分が潤い、楽になる。 社会も宇宙も、今のところそういう仕組みになっている。 「因果応報」 「情けは人の為ならず」(実は自分の為) 結論的に言うと、究極のエゴイストは自分も大事にするが、他人も大事にする。そして、最も進化したエゴイストは、「自己犠牲的」となる。 精神的、内面的には、「自己犠牲」というのは、極論すればエゴイストの行動なのだ。 だから「マザー・テレサ」の写真などを見ると、そういうわけで究極のエゴイストに見える。 ノーベル平和賞ももらい、晩年も世界中から惜しまれて亡くなり、ある意味最も幸せな「お年寄り」というう風に見える。 ありがとうございました。 追記【1】 中途半端に自己犠牲的であるより、自分のことしか考えないエゴイストの方が、サッパリしてワカリヤスイ。 ただし、結末は意外にも脆く、不安定だ。レディーの国、イギリスあたりに行くとそれがわかる。 他人に甘える「レディー」あがりの「婆さん」は嫌われ、他人に優しいジェントルマンだった「爺さん」は好かれる上にカッコイイ。 たくま癒やしの杜クリニック 浜田朋久 |