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■ 老成のすすめ | 2008. 2.13 |
最近は、少子高齢社会の為か、多くの人が「老いる」ことに恐怖感を抱き、「若さ」への執着というのが顕著になってきているように思える。 そもそも「老」というのは悪い意味ではないけれど、医学的には老化とか言って、身体機能の衰え、美の喪失、さまざまな欲望の減退など、近親者、特に祖父母、両親、友人の死など、確かに、「喪失」の年齢でもある。 さらには、「老害」などという言葉もある程だ。 「老」の良い意味としては、人間的な円熟、洗練、そして「老成」だ。 昔は、長老とか言って、年配者は知恵知識の蓄積者として、又、良き相談役として、周囲から尊敬される身分を与えられた。 江戸幕府においては、老中とか大老とか言って、殿様の次の身分、今で言う役員みたいな身分の者に「老」の字が与えられていた。 ソフトバンクという携帯電話会社の社長は孫正義という50代前半の若い人で、今や3兆円企業の総帥、日本でも世界でも有名な人であるが、28才の時、丁度100億円企業を創り上げた時の講演テープを手に入れて、聞いてみたが、とても20代の若い男の講演内容ではなかった。 まるで、海千山千の労苦を乗り越えてきた、50代60代の人の、落ち着いて自信に満ちた話し方であり、また内容的にも、今の20代の若者の思考内容とはかけはなれた、まさに「老成」されたものであった。 驚きである。 多くのベンチャー企業の成功した雄達は、ほぼ8割方、20代で創業、企業している。 そして、多くの人が、みなそろいもそろって「老成」している。頭の中は殆んど完成品なのだ。その倫理感、人生哲学、勇気、信念、度胸、慎重さ、人間性、どれをとっても、完成された芸術品を見るように見事である。 ライブドアという会社の創業社長のH氏もマスコミにもてはやされて、とてもアタマの良い人であったが、どちらかというとヤンチャで、とても「老成」とは程遠い人物に見えていた。 当時から、中国の古典などは読まない人であろうし、又、老年者への畏れも見られなかったので、とても危なっかしい感じを抱いていたが、予想通りに社会から、何となく抹殺されてしまった。Mという投資家もしかりである。再起できるか不明である。 また、コムスンのグッドウィルグループのCEOであったO氏も、若い有能な企業家ではあったが、老成はしていなかったように見える。 これらの人々の明暗を分けたのは、やはり「老成」ではないかと思える。そして、付け加えるならば、「社会性」というものへの意識の差ではないだろうか。 「若さ」への憧れも良いけれど、「幼さ」への郷愁も良いけれど、一度でも良いから「老成」というものへ意識を向けるのも、時には良いのではないだろうか。 いつまでも少年のようなみずみずしい純粋な感性を残しながらも、思考の内容は、深く、遠く、高く見透かすことのできる、どちらかというと、悪のイメージのある老獪さを宿した、人間としての「老成」は、あらゆる社会人、学生、経営者、ビジネスマンにとってはおすすめの目標ではないかと考えている。 簡単に老成を得たいと思うならば、自分の実年齢など無関係に、自分が88才とか90才の、とても円熟とした知恵を持った、老人になったつもりになってみたら良かろうと思う。 自分にも他人にも家族にも社会にも友人にも同僚にも、もっと言えばあらゆる生きとし生ける者への恭々しく慎重な態度が、得られるのではないか・・・。 ありがとうございました。 追記【1】 今日から85才と思うことにしよう。 追記【2】 サミュエル・ウルマンという人の「青春」という詩があるが、これは年を老いても、若さへの謳歌がうかがえるが、妙な若造りなどより、キチンと老いた方が「美しい」のではないかと思える。 若さというのは「残酷さ」と「愚かさ」の代名詞のような気がする。 最近の若者の風俗などを見ると、中身の誠実さ、一途さの割にはあまり「美しさ」は感じない。 したがって、私の場合、若さへのあこがれは幸か不幸かまだ無い。 追記【3】 今は「若く見られること」「痩せて見られること」を良しとする文化となっているが、私の父親は昭和ヒトケタの世代であるが、老けて見られること、肥満と見られることをどうも好んだようだ。 「老い」とか「若さ」についての文化の違いであろう。 今時の若い人に「老成」と言っても殆んど受けないかも知れないけれど、敢えて書いてみました。 たくま癒やしの杜クリニック 浜田朋久 |