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■ モタセルから使うへ | 2008. 1.26 |
臓器移植や再生医療など最近、万能細胞など目ざましい医学のトピックが生まれている。不治の病で苦しまれている方には本当に、素晴らしい暁光であろう。 人生は生まれてから死ぬまでの時間である。 肉体というのは必ず滅びる。何とか上手に「モタセル」には、さまざまな工夫や努力が要る。 ここで述べたいのは、この「モタセル」という感覚である。 先日、抜歯をした。20才時に1回して、35年後に2度目の抜歯だ。冠をかぶせてブリッジした歯であるから、よく「モタセタ」なあと、自分の歯と件の歯科の先生には、心から感謝したい。 その右下顎の奥歯は、ケースに入れて墓石の中に、ひとあし先に「納歯」した。ナミアムダブツ。 残りの歯は、何年モツのだろうかと考える。 母方の祖父は、90才で脳梗塞で死んだが、歯は全てそろっていて、虫歯も欠歯も一本も無かった。 母親も、前歯が一本抜けただけで、75才で死ぬまで、これまた全部自分の歯であった。 一方、息子の私は情けないことに虫歯や冠やブリッジだらけである。 トホホ。 脳や心臓などの比較的に病気もしやすい重要臓器や、胃や腸など病気は多いけれど、いくらか切り刻んでも”モツ”臓器。腎臓や肝臓など、1対ずつ計2個ある臓器ながら、一度ダメになると、交換する(移植する)しかない臓器など、このカケガエノナイ、私達の肉体のことをしみじみと思えば、多少の金銭や日常の憂さや悩みやプライドなど、どうでも良くなる。 生きていく上でこれらの臓器や骨格、筋肉、神経など、少しでも「モタセル」のが医療とすれば、或る意味、全ての医療行為は「延命治療」と言えないこともない。 最近では、動かしつづける自動車と同じように「生きている」という状態は常に消費消耗してるという実感がある。それは、地球の化石燃料の枯渇問題と同じく、人間の命というのは、丁度ろうそくの炎のようなもので、時々刻々と確実に冷厳に、消え去るという宿命にある。 長いろうそくか、太いろうそくか。 短いろうそくか、細いろうそくか。 全く、それぞれであろうけれど、人間の肉体の生命の最終的運命というのは、ろうそくの光と何ら変わることがない。 このようにツラツラと人生について思いを巡らせると、その生命のともしびを、マチガッテ吹き消してしまったり、吹き消されてしまったり、又、無闇にいじってたり、もがいたりしないで、できるだけ燃えていること、周囲を明るく照らすことに意識を向けて、あまりに「モタセル」ことに夢中にならないで、その生命の炎を燃やしているという喜びを感じることの方が大切ではないかと思える。 人類にとって、再生医療、移植医療の進歩発展は、誠に慶賀すべきことであろうが、どちらにしても、「モタセル」ということの一時的な一手法に過ぎないということを実感しないと、何の為の人生か分からなくなるのではないかと思える。 「この生命何の為に使うか」 「使命」という意識。生命を捨てても良いと思える程の、対象の仕事、恋、使命感に出合っただけでも、その人は素晴らしく幸福な人生を送ったと言えるかも知れない。 「生命をモタセル」でなはく、「何の為にこの生命を使うのか」の方が人生、潔く、楽しく、気軽なのではないかなと思う。 ありがとうございました。 たくま癒やしの杜クリニック 浜田朋久 |