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■ 思考と言葉 | 2007.12.21 |
「コトバハズシ」という言葉を或る人のお便りで頂戴し、「言葉ハズシ」について考えて見た。 確かに、思考の道具として言葉は極めて重要だ。 そもそも、言葉が無ければ、思考は生じないかも知れない。 最近の若い人の中には、記憶している言葉の数、つまりボキャブラリーが少ない為に、こちらの質問に対して、どう表現して良いかワカラズ、つい「ワカラナイ」と言ってしまうか、ただ首を傾けて黙っている・・・ というような「表現」をされる方も多い。 多少本を読んで、言葉を記憶する作業は、教育とか学習とかに、結構、重要であるという気がする。 ごく皮相的に見れば、持っている言葉の数とそれを使いこなせる技術能力を持ってアタマの良さと言っても一般の社会生活では過言でないような気もする。 しかし、果たしてそうであろうか? 物事をそう関単に言い切れるのであろうか? 物凄く幼稚な議論をしているようでお恥ずかしいところですが、件の「コトバハズシ」という表現には、物事の真理というものは、言葉ではとうてい表すことはできませんヨという意味が込められている気がするが、それは、私も全く同感である。 物質にしろ、精神的なものにしろ、物事を突きつめていけば、もっと具体的に「何故」「どうして」と問い詰めて行って、最終的に解答できる人はこの世にはいない。 「解答できない」というのが賢人の答えである。 最近の若い人の「ワカラナイ」も先人のあらゆる知恵知識の権化のよう。哲人賢人も答えは同じ「ワカラナイ」だ。 愚かな人がボーッとしているのも 悟った人がボーッとしているのも 見かけ、形態は同じに見えるのと同じだ。 昔の有名な逸話に 或る悟りきったように淡々と静かに振舞う人物を見て、或る「高僧」が「あなたは素晴らしい人だ。どのような考えで生きておられるのか?」と尋ねたところ 「私は若いときに易者に言われたことが全部当たり、以来その易者の言うとおりだから、ジタバタせずに淡々と生きているのです」と答えたところ 「お前は大馬鹿者だ」とさっさとその人物のもとを去ったというのだ。 この逸話の意味はともかく、運命、宿命、立命についての、ひとつの示唆に富んだ考え方の方向性がある。自らの運命を切り開こうとする意志や意欲は人生できわめて重要である。 言葉でどれだけ真実を語れるか、表現できるか、限界はあると思うが、「コトバハズシ」というカンタンなアタマの作業でも、思考は止まり、「悟り」へ一気に近づけるのかも知れない。 少なくともアタマは楽になり、気分は晴れる。 言葉を書きながらでも、気分は晴れる。 ダイアモンドはダイアモンドで磨くそうだ。 言葉も言葉で磨く。そして吹き飛ばす。 今夜は、少し、楽に眠れそうだ。 「コトバハズシ」で思考が止まれば、一時的に楽になる。 先述したように、「悩み」というものの「本質」は思考にあるから、思考の道具である言葉を一旦捨ててしまえば、「悩み」も消えてしまうワケである。 若い人の「ワカラナ〜イ」も或る種、悟りめいている・・と言えるかも知れない。 ありがとうございました。 たくま癒やしの杜クリニック 浜田朋久 |