[戻る] |
■ 自叙伝【6】 | 2007.12.18 |
昭和56年6月。晴れて、日本国の医師の国家資格を得た。 母校である、東海大学病院の内科研修医として働き始めた。初任給7万円。 当時はメズラシイ、ローテート式で、数ヶ月毎に各科を全てまわる、殆ど「見習い医者」で身なりも知能も医学生と変わらなかった。 主治医として入院患者を受け持たされ、指導医とセットで教授以下、助教授、講師、助手からさまざまな教育と指導を受ける。 この時代は、院外のアルバイトが可能であったので、頼まれるとイヤと言えない気の弱い性格と経済的な逼迫感から、殆どの依頼された「当直医」アルバイトは引き受けた。 結果的に年中無休で働くという状態になった。 神奈川県内のみならず、静岡県まで車で出かけた。 最も多忙だったのは、一般内科。当時、第4内科の研修中で、アルバイト依頼も多かったが、白血病を中心に重い血液疾患や、膠原病やら、原因不明の病気、免疫状態、全身状態の重篤な患者さんばかり(大学病院であるから、当然ではあるが)10人も受け持たされて、1日中病院を駈けずり回っていた。よく体力が持ったと我ながら感心する。 患者さんの症状は激変する。 午前中笑顔だった人が午後には高熱、意識不明とかはザラで、原因の良く分からない症状の患者さんも多く、指導医とよく悩んだり、考え込んだりした。 今思えば、このときの指導医のドクターは、怒ることもなく、淡々として優しい人だったが、何を聞いてもまるで神のように的確で適切な判断を直ちにくれる先生で、とても優秀な医師であったように、現在でも思える。 ただ、プライベートでは「女にモテるにはどうすればいいんだろう?濱田君」などとしょっちゅう聞いていた。私が余程女性にモテるように見えたらしいが、全くそんな事実も根拠もなく、第一時間もお金も体力も経験もなく、大概は「スマイル、スマイル」とか「褒めれば良いんですヨ」とか本で得た知識をいい加減に答えていた。 確かにどうみても女性にモテそうな先生ではなかった。理由は良く分からないけれど。 ただ、この時期の救急病院での不眠不休の苦闘とか、連日の当直勤務とか、とにかく、ただただ忙しい毎日が現在の医師としての仕事の土台を築いたことは確かだ。 気力、体力、知力等、自分の全精力を仕事と勉強に打ち込んだ。 又、とてもカッコヨク、アタマの良い先輩ドクターがゴロゴロしている病院で、皆、神様か超人かと未熟な私には思えた。 循環器内科では、みんなあきらめて立ち去った後も、Kという同じ研修医ドクターと二人で、DCカウンター(心臓電気ショック)をやりつづけ、10回目くらいに心臓を蘇生させ、退院まで持っていったこと。「しつこさ」を学んだ。 消化器内科では、私の一言で患者さんに投書までもらう程の不快さを与えたこと。しばらく教室の壁に貼ってあった。 多分、自分の愚かさと多忙さが原因と思える。 「言葉の大切さ、礼節を学んだ」 こんなエピソードを教え上げればキリがない。この時代の経験のすべてが医師のしての仕事の血となり肉となり、骨となった。礎となった。 それでも、辛いと思ったことは無かったが、このまま続けたら、長生きはできないだろうなあとおぼろげながら感じていた。 一般内科での、膠原病患者さんや原因不明の病気の患者さんを診ていて、その不思議に共通した性格、特性に興味を持ち、「心理と身体疾患」の関連性に半ば直感的な確信を持って気づき、 重い膠原病を心理的に援助することで、かなりの軽快を得るという経験をした。 このことが、現在の「心療内科」標榜の動機のひとつとなっている。 この当たりは、日本でも心療内科の有名なA先生と「入り口」は不思議に共通している。 つづく。 ありがとうございました。 追記【1】 当時、白血病は「寛解」を得るのみで治らない病気とされていたので、患者さん本人や家族に説明するのも大切な仕事で、そんな時は坊さんか牧師になったような心持であった。 また、白血病は、全身の免疫状態を悪化させ、出血傾向を高めるので、発熱とか感染とか脳出血、全身の出血をはじめ多種多様な症状に対応しなければならず、精神的なサポートと同時に、種々の対症治療に追われ、苦労と悲哀と無力感と同時に、医師としては良い経験となった。 大学病院時代は、一人も死亡者を出さず自慢していたら、「お前が何もしないからだ」と先輩医師に揶揄されたが、確かに、高齢者とか、極度に衰弱した患者さんについては、「何もしない」のも治療であることを学んだ。 追記【2】 研修のテキストの裏紙に、有名なあるドクターの一文が記してあった。 「医師は、常に慰め、時々苦痛を取り、稀に治す」と。 医者の世界では、常識中の常識であるが、医聖と称されるヒポクラテスの言葉も記したい。 「病を癒やすのは自然である」 医者が何もしないで良いという言訳にしないという前提と自戒を込めて。 たくま癒やしの杜クリニック 浜田朋久 |