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■ 自叙伝【5】 | 2007.12.18 |
もういい加減にこのシリーズは止めたいと思いながら、「連続性」の維持という観点から、今回も凝りずに書いている。 東海大学の湘南校舎というのは、神奈川県の小田急線添いの大根という小さな町の高台の上にあった。当時は「学生運動」防止の為か、重い鉄門と門扉で校門は硬く閉じられ、守衝の人が厳重に人の出入りを監視していた。 総合大学の医学部であったから、一般教養の2年間はこの湘南校舎で講義を受けた。 父親の言で「大学は遊ぶところだ」に従って、殆ど講義には出席せず、大学近くのビリヤード場と喫茶店を往復し、夕方の「下校時」には毎日酔いつぶれて、馴染みの喫茶店の前にほかの学生が通るのも構わず寝そべり、酔いが覚めて起き上がって、電車に乗っても厚木という駅で乗り換えるべきところ、終点の新宿駅まで何度となく乗り越してしまった。 ちなみに入学時は横浜市内の父の兄、つまり叔父の家に下宿していた。「目が覚めるとそこは新宿」というワケである。 大学1年のときは、年中酔っ払っていたような気がする。 一般教養で心に残っているのは、フランス語と英語と医学論である。ナカナカ聴き応えのある立派な講義であった。 ・・・が、医学部の学生のレベルは、新設の私立医大らしく、我が大学ながらとても低く、幼稚園か小学校低学年の実に騒々しい学生達の為に、教授の怒りを買う場面を生じる程の授業であった。 これは1年後に半数近く「留年」が生じ、2年目は一気に静かで「マトモ」な講義風景に「戻った」が。 断っておくが、他の多くの学生は、とても優秀で、東大や慶大等を卒業して入学している連中もいて、優劣の格差の振幅のとても大きい同級生達であった。 けれども、浪人ボケか、チンピラボケか、努力の割りに成績は上がらず、一生懸命アタマの良い友人の教えを乞いながら勉強し、何とか成績落第による留年は経験せずに、大学時代を過ごすことができた。 友人達に、感謝感謝である。大学の友人は私にとって全て恩人である。 学校には、できる限り行かなかった。 自分の勉強方法として、講義を集団として聴講するのはとても非効率で、良い結果が出せないことに、大学3年か4年のときに気づき、優秀な友人達のノートのコピーを自分のアパートで教科書と照らし合わせて分析し、講義は「参考」の為に出席した。 この勉強法が最も良果を得ることを発見し、学校には実習以外、殆ど行かなかった。(ただの怠け学生かも!?) 「神経言語プログラミング」NLPからすると自分は聴覚型ではなく、殆ど「視覚型」で、専ら「読む」と「書く」という作業のお陰で、比較的には成績の上位に学年が上がる程、位置することができた。 昭和53年の父親の死の年には、精神的動揺の為に「実習をさぼった」と、結果として、成績が10位以内であれば留年を免れると、教育担当の教授に言われ、この時には、我ながら、さらに激しく強くしぶとく勉強をし、「結果」は出したが、当時、外科の教授で病院長の教授達に呼び出され、「私の実習をさぼったので、君は絶対に落とす」と明言され、心の中で潔く「観念」した。 5年生の春、(父の死の翌年)微かな甘い期待を抱いていたものの、見事に留年をして母親を二重に悲しませた。(先述したとおり) 卒業は、現巨人軍の監督の原辰徳氏と同年であった。 医師国家試験の合格を知る前の4月に、巨人のユニフォームを着た原選手が、デビュー戦を華々しいホームランで飾り、卒業の喜びに花を添えた。 卒業式には、母だけが来てくれた。 国家試験の結果が気になり、特に浮かれもせず深い感慨もなかった。 ただ、心からホッとしただけである。 卒業式には、元日本医師会長の武見太郎先生が祝辞を述べた。 内容は今でも鮮明に記憶している。立派なスピーチであった。 国家試験の合格は、厚木の喫茶店で友人の持ってきてくれた、新聞で知った。 信じられなかった。解答合わせを友人達として、自分は落第したと思っていたからである。 国家試験予備校の手配までしていた。 合格を知って第一にしたことは、ノートやらコピーやら、アパートの部屋にあった教科書も含め、ありとあらゆる紙切れの類を捨て去ることだった。 ゴミ捨て場に車で3回は往復した。 「これで俺も生きていける」 これが当時の正直な心境であった。 つづく。 ありがとうございました。 追記【1】 国家試験の準備は、大学6年の秋に始めた。他の学生からすると出遅れていた。 内心激しい焦燥を感じ、実家からバランスという安定剤と瞑想で集中力をはかった。 国立大学に行っている友人やら、多方面から情報を集め、やはり「独学」で行くことにした。 大学に講義を1週間まともに受けてみたが、逆に成績が下がり、さらに、カラダの調子を崩し、1ヶ月あまり寝込んでしまった。 ホトホト「学校」が苦手な体質らしい。 モチロン、友人の助けがあって成し得た結果であるが、90%は自学というか「独学」であったような実感がある。 追記【2】 殆ど独学で成功した世界的建築家の安藤忠雄氏、中卒で弁護士になり、今や大阪府の副知事の大平光代氏、等々、自学、独学者の社会での活躍ぶりは枚挙にいとまがない。 これらの人々には、深く共感を覚える。医師は、医学部を出なければ国家資格を取れないが、「自学独学」「読書」で乗り切ったという自信は今でもあり、「勉強の大切さ」を改めて実感した大学時代であった。 高校の友人には、医学部を卒業したものの、国家試験に合格せず、「医師」になれなかった男が数人いる。勉強というのは、自分でするものであるし、或る意味とても孤独な作業なのだ。 友人達と連れ立って、夕食に酒を飲み、謂わゆる晩酌などしている連中は全て試験に落ちた。当然であろう。 追記【3】 母校は、今では私にとって自慢である。 色々な意味で良い大学であった。 素晴らしい友人や先生や先輩のドクターに出会えた。 慶応大学出身のドクターが多かったが、皆さんとても勤勉家で、何しろカッコ良かったし、朝早くから深夜まで勉強と仕事で年がら年中元気いっぱいだった。 追記【4】 まがりなりにも、謂わゆる湘南ボーイであったから、加山雄三よろしく、スキーやサーフィン、ゴルフや車やヨット等に少し触れる機会はあったが、個人的には殆ど興味はなく、お金も無かったから、専らアパートにひきこもり、読書や取りとめのない思索で日常を過ごした。 あまり今と変わらない。 追記【5】 入学時には、サザンオールスターズやユーミンがブレークした年でもあった。 たくま癒やしの杜クリニック 浜田朋久 |