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■ 自叙伝【4】 | 2007.12.18 |
自暴自棄。 大学浪人中の生活を一言で表現するならこの言葉がピッタリだ。 張りつめていた緊張の糸がプッツリと切れてしまったようで、全く勉強もせず、遊惰で、欲望と衝動に惑乱された、落ち着きの無い、まるで狂人かケダモノのようにその日その日、無軌道に生きた。 ワザワザ方角が良いからと母が入れてくれた大分市の予備校には一日も出校せず、バイクに乗られるよりはマシだと思ったのか、父親の買い与えてくれたニッサンサニーで、不良仲間のいる熊本市にすぐ舞い戻り、地元の暴走族に入り、チンピラや地回りのヤクザや、元**会の会長と称する元組織暴力団の親分の運転手にまでなり下がった。 この会長は、足を洗って小さなタコ焼き屋とスナックと喫茶店を営んでいたが地元でもチョットした「顔」ではあった。 その身分を少し怪しんでいたが、福岡市の中洲や、熊本市の新市街のキャバレーに引き回された時には、運転手の自分にも丁重な挨拶と名刺トータルで100枚くらいは差し出され、帰り際に数十人のその筋の男達の整然と並んだお見送りを受け、その会長なる男の過去の栄華を信じた。 名前は忘れた。もし記憶していても述べるワケにはいかないが・・・。 実弟が弁護士であると聞いていた。 「とりあえず、医学部志望」の私をいたく可愛がってくれて、周囲に無言の圧力をかけ、時々起こる、半ば日常化している暴力沙汰でも、警察のパトカーが来ると、就学に障ると、自分だけ「逃げる」ことを許してくれた。 或る意味で恩人である。 この会長は、小指をはじめ数本指が無く、喧嘩は弱かった。 指を落とすと喧嘩や「女」が弱くなることをこの時に知った。 実は、私も喧嘩はそれ程強くはない。もともと暴力は嫌いなのだ。ただ、そのような組織に半ば入っていた状態なので「強い」フリをした。 そもそもヤクザは喧嘩が強い必要はない。 相手がボクサーだろうと、柔道家だろうと、空手の達人であろうと、拳銃や刃物と入獄を恐れない覚悟と度胸とには、誰も適わない。これこそまさしく極道の本領だ。 そもそも、その世界は気合とハッタリと度胸の試し合いの世界なのだ。この頃から、無表情と沈黙と相手の予測を裏切る暴力で、周囲を威嚇するスベを憶えた。 喧嘩などは日頃から鍛えている丸暴の刑事の方がはるかに強いのではないだろうか。 覚せい剤も当時から、手近にあって、何人かの仲間は手を出していたが、組でも身分の高いヤクザや、チョット気の効いた筋者は、滅多に手を出さなかったし、モチロン私も、それだけは手を出さなかった。 殺人と薬と、泥棒はやらなかったが、弱い喧嘩は時々、激惰にかられてではなく、計算高くクールにそれをした。意外なことに「その世界」に「足をかけて」から、謂わゆる「悪事」は逆にしなくなった。 その上、やたら礼儀正しく用心深くなった。やはり「その世界」は恐ろしいところなのだ。 組織の上の方の連中は、静かで優し気な感じの男が多かったが、一度胸中の小さな逆鱗に触れた時には、一瞬にして狂人のように暴力を振い、相手を威嚇し、完膚なきまでに打ちのめし、時には半殺しにした。 自分は元会長付きで、比較的安全な場所にいたが、何故か喧嘩沙汰には至らず、その世界で過ごすことができた。 金もなく、家もなく、クルマも飲酒運転でトラックに激突させ、ついでに角のタバコ屋に突っ込んで完全に破壊してしまった。 警察まで呼ばれたが、車はそのままにし、現行犯逮捕だけは阻止すべく、現場から逃走し友人宅を転々とした。 父親が、手を回してくれ事なきを得た。いつも最後は親に助けられた。情けない限りだ。何のかんの言っても真実は親の庇護の大きな傘の下にいる甘ったれの「おぼっちゃま」なのだ。 こんな調子であったから、医学部入学など夢のまた夢。ほぼ完全にあきらめて、浮浪者のように、知人、友人の家を渡り歩いたところ、或る優しい女性との付き合いと、そのまともな両親の手配で、家賃の極めて低廉なアパートを紹介されそこに落ち着いた。 4畳半一間で、天井は身の丈程しかなく、鍵は南京錠で、隙間風の通る、みすぼらしい木造の部屋だったが、コタツと布団とテレビを置いて心から満足した。 丁度、大学をあきらめて、「働く決心」をした或る冬寒の2月の朝、母方の祖父と、母がそのみすぼらしい私の部屋に突然現れ、小さなコタツをはさんで、私に「明日、大学の入試があるから受験してくれ」と言われ、即座に断ると、祖父は烈火のごとく怒り「そぎゃあしとってワカッカ!」「それでも男か!」等、さまざまな激しい罵羅雑言を私に浴びせてくれたが、母は珍しくうつ向いて静かに涙を流していただけだった。余程私の苓落ぶりが悲しかったのであろう。 母の涙は、生涯でこの時が最初で最後であった。 「ワカッタワカッタ」と不承不承、福岡の田舎にある試験会場に母と二人で受験に行った。 どうせダメだけど、受けるだけ受けたら親も満足するだろうという程度だった。・・・がしかし どういうワケか、合格通知が来て、入学することになった。 東海大学医学部。新設の医学部で、一期生として晴れて入学した。 昭和49年4月。20才の春であった。両親が入学金、寄付金をかなり払ったらしいが、父も母も今は亡く、金額は不明である。 父は相当ためらったらしいが、母はどうなるかワカランけど、アタマが良いのは長男だけだし、ドラ息子極道息子ではあるが、一か八か入学させようということになったらしい。 当時、年180万という授業料は高かったけれど、卒業してみると、それは卒業時には比較的に当時それ程の高額ではなくなっていた。 やっと地獄のような地下世界、裏世界から抜け出すことができた。・・・という気分ではなかったが、そのときには、アタマはまだボンヤリとしていて働かず、五里霧中であった。 つまり、何が何だか分からないまま、神奈川県の田舎にある東海大学というマンモス総合大学に放り入れられたというのが正直な実感であった。 不思議なことに、卒業はできるという自信はあった。特に根拠は無かったが・・・。 つづく。 ありがとうございました。 追記【1】 その当時の大学入学前の不良仲間十数人のウチ、半分は死に、残りの半分の半分はヤクザになり、刑務所を出たり入ったりして、意外なことに、そのうち二人は社会的に成功している。 全く驚きだ。 追記【2】 自分が医学部に入学できるなんて奇跡だ。運が良いとしか言いようがない。 まさしく、先祖の余慶、両親の遺徳だ。自分のようなゴロツキにこんな高邁な仕事が与えられるなんて、今でも信じられない。 親には本当に感謝しても感謝してもしきれない。その思愛の深さに、今でも本当に頭を上げることはできないでいる。 結局、最終的には、親がかりの「甘ちゃん」だったワケだ。この考えは、いつも自分の傲慢さへのブレーキとなっているような気がする。 追記【3】 「その世界」言わば裏の世界を垣間見たことで、貴重な教訓を得た。やはり「油断大敵」少しのミスで生命を落とす、ドン底まで落ちる。厳しい世界だ。 追記【4】 法律上、少年というと、当時かなり優遇され家庭裁判所どまりで、最悪でも保護観察にしかならなかった。 これも親の社会的地位が因らしい。 さらに犯罪というのは「自分が何もしなくても」その場所にいて、阻止するか、通報するか、立ち去るかしなければ、共犯ということになり、罪を課せられることを知った。 我ながらコスッカライ男ではあったが、本当には悪い事はできなかったし、カッコつけているワケではなく、本当に弱いに人に暴力を振ったこともない。 気が短いのは遺伝だろう。こんな話をすると、今はみんな信じられないという。 高倉健のヤクザ映画はしょっちゅう見に行った。 たくま癒やしの杜クリニック 浜田朋久 |