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■ 自叙伝【3】 | 2007.12.18 |
中学校から、熊本市のミッション系(カトリック)の中高一貫教育の、とりあえず「進学校」へと進んだ。県内で最も授業料の高いことで知られる「おぼっちゃま」学校だ。 当時は完全な男子校であった。 女性の教師も一人もいなかった。校内に女性はたった3人。校長の秘書と売店の売り子さんと図書室の司書だけだった。大学に入ったときは「女性教師」なるものがこの世に存在するといううことを初めて実感したものだ。 いきなりの寮生活であったが、「淋しい」とか「心細い」と言うより、心の半分以上は軽いうしろめたさを感じながらも、正直なところ、心底本心は「安堵感」であった。 やっと「火宅」から解放された・・・と言うような。親も自分達の家庭環境が長男にあまり好ましいものではないと感じていたのであろう。 この「中学からの寮生活」は私の少し風変わりで複雑な人格形成に功と罪の両方をもたらした。 功の部分は自立の早さだ。 「自分のことは自分でする」習慣がついた。 それと、当然ながら団体生活とか、規律とか、上下関係とか、通常は体育会系団体競技の集団で身につけるような生活態度とが、私の心身に自然に染み込んでいった。 しかしながら、その反動で、高校後半から大学、社会人の今の今まで悪い影響を残したようで、放浪癖と自由と気まぐれと孤独好きと「異性への特別な好奇心と関心」という性向を創り上げたような気がする。これらの特性の一部は同級生の連中にも少しく共通している気がする。 何しろ、中学生から女子生徒というものに殆ど全く接触がない為に、その人々の生態が全く分からず、奇妙な程、無垢で純粋な憧れと、廉恥と、そして強烈で狂おしいぐらいの興味関心をそそられたが、実際に、異性と付き合う技量もチャンスもなく、それらは殆ど全てその手の「雑誌」からの情報摂取と、それそものをのエネルギーの解放の手段とした。おかげで「読書家」に拍車がかかったような気がする。 これは強い少年らしい羞恥心の為に、心の奥底に閉じ込められ、表面上は自分のエネルギーや、精力の殆どはスポーツと勉学に向けられて、中学2年より高校2年までは5クラスのとりあえず優秀クラスに形として入っていて、結構、成績優秀な連中と過ごし、一面常に彼らにコンプレックスを抱いた。 バスケットボールを始めたのも、ほんのささいな偶然だったが、ワケも分からず連れて行かれた教室で、何か「難しい球技」の説明を受けて、後になってそれがバスケットボールというスポーツであり、その集まりは、自分の入部のセレモニーであったらしい。 同時期に入部した1人は、学内で常に一番でKという男だったが、口いっぱいに食べ物を頬張り、モグモグと顔を目いっぱい膨らませながら飯を食う姿と、試験前にロマンス小説を読んでいたけれど、東京大学に現役で入学した。 もう1人は、長身でハンサムでとても紳士的な、上品ないかにも頭の良さそうな勉強家であったが、この男は京都大学へと進んだ。 もう1人の友人は最近同窓会で会ったが、九州内の私立の医学部を出て整形外科の医者になっていたが、色白の長身の美少年で、自分はひょっとしたらゲイかも知らんと思ったくらい一時期「好き」になったが、片想いで、またその感情も、ただの「思い過ごし」であることに後で気づいた。 とにかく中学時代の我がバスケットボールクラブには成績優秀な生徒が集まった。 何故かみんなバスケットボール部のメンバーであったが、最も上級生に殴られた回数の多い自分が、中学2年になると、メンバーのすべてを暴力的な態度と言動と激しい感情で支配し、大いに嫌われ、恐れられ、その一方で下級生の憧憬を受けた・・・らしい。 これは何故かワカラナイ。 この医者になった同輩の男は、当時、特待生だったらしく、私のことを「自分よりも成績が良かった」と言ってくれたが、よく憶えていない。確かに全国の模試で瞬間的に偏差値が東京大学をクリアする程だったらしいけど、高校の後半では卒業前には完全な「落ちこぼれ」の不良少年、非行少年で、無免許でバイクを乗りまわしたり、学校をサボって映画を見たり、タバコを吸い、時に酒を飲み、麻雀をしたり、車の免許を持った連中のクルマに同乗し、街をウロついたり。 当時流行していたディスコティックで連夜踊ったりしていた。 高校3年になると、夜中も勉強できると親をだまし、学校の近所に下宿して2つの悪事に手を染めるようになった。 ・1つは質屋通い。友達や下級生の時計やラジオや自転車を片っ端から、先輩たちから借りた保険証で次々に質に入れ、金を手にして仲間と山分けした。(18歳未満では質屋は利用できない。山分けとは言え、殆ど半分は自分のリスクの大きさを理由にピンはねした。我ながら強欲だ。) ・2つ目は「シンナーの吸引」。実は「コンタクト」という接着剤をビニールの袋に入れて、吸引して快感を得るものであるが、既に不良グループに完全に入っていて、不良グループの「リーダー」として自分だけ吸わないワケにはいかず、口で吸うフリをして、鼻で息をして、何とか脳の破壊をまぬがれようとしたが、やはり少しずつ自然に吸い込んでいたのであろう。すぐに依存症になり、バイクで事故を起こし1週間の意識不明と、以後は何となくキレの悪いボンヤリした頭脳になってしまった。この後遺症は数年間続くことになる。今思えば恐ろしい体験をした。 卒業前の3月、バイクの二人乗りをパトカーに追いかけられ、逃げ切れずにつかまり、後ろに乗せていた男を逃がし、その男の名前を、守秘した為に、交番の裏にある柔道場で警察官に殴られたり蹴られたりして、問責させられたが口を割らず、怒った警官はさまざまな過去の悪事を調べあげて、学校に報告した。高校の卒業式は済んでいたが3月31日を過ぎておらず、このことで「卒業取り消し」という浮き目にあった。「油断禁物」。 この時、K医大の入学は確定していたが、当然取り消しとなった。このときの、親の悲嘆は尋常ではなかったろう。 親はそれでも医学部に入学させるべく、鹿児島県の高校(某マンモス私立大学の付属高校)に無理矢理3年生として再入学させた。母親と二人でタクシーで再入学をさせてくれる学校を探して宮崎県や鹿児島県をウロウロ走り回ったことが、学校など「何とかなる」という安易な考え方と「退学」というのが結構「メンドウクサイ」事態を招くものだ・・・と学んだ。母親の「シブトサ」に感謝している。もともとあきらめは早い方なので尚更だ。 ありがたいことに転校した高校は男女共学であったが、想像していたようなロマンティックなものではなく、彼女らの校内での「生態」をつぶさに観察するにつけ、いろいろな「失望」を味わった。女性も普通の「人間」であったと・・・。おかげで男女交際というものも無く、セーラー服への憧憬もあっという間に消滅した。 といううわけで、高校にはに計4年通った。 そこでも成績は過去の貯金で何とか優秀ということであったらしいが、シンナー中毒を克服するのには苦労した。ある晩、ビニール袋を集めてその吸引をしようとしたところいつも見ているエロ本を見ても、少しも興奮せず、それは性の快感を感じるものであると確信し、何とか薬物依存を自力で治した。心理学者の南先生によれば依存からの脱出には「欲望」は欠かせないと。・・・実感した。 自らの性欲に感謝したものです。 この学校の母体であるマンモス大学も、推薦での歯学部入学できると言うことになったが、全く勉強もせず、次第に下がる「知能」を危惧して妥協しようと考えたが、父親から「お前に歯科医は務まらん」と一喝され、もう一年浪人をすることになった。とほほ。 つづく。 ありがとうございました。 追記【1】 中高時代はバスケットボールに夢中で、このことにより厳しく窮屈な寮生活の憂さと思春期特有の様々な誘惑から救われたように思うが「その方面」の未熟さ、無知が放置され、中年を過ぎてからも、その弱点が自らを悩ませることになった。 追記【2】 寮生活を通じて、特定の上級生のいじめ、暴力に悩まされつづけ、実際に日本刀で脅されたこともあるが、父親や母親の家内の騒動で慣れていたせいか、6年間を何とか逃げ切って、或る意味で、自らの精神の強靭さに「根拠のある」自信をつけた。 追記【3】 読み返してみると、多少自慢話のように感じられるかも知れませんが、「自叙伝」というものの性質上、仕方が無いように思います。 乞うご容赦です。殆ど真実に近いものですので、悪しからず・・・です。 たくま癒やしの杜クリニック 浜田朋久 |