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■ 自叙伝【2】 | 2007.12.18 |
小学校は、地元、人吉西小学校。 やっと卒業できた。先述したように、親の因果か、家内の騒動が日常化していた為、精神状態がとても不安定で、不眠症、神経症、夜尿症、常習便秘、等々、さまざまな体調不良に悩まされ、母親に連れられてあちこちの小児科やら、怪しげな漢方医やらまじない師やら占い師やら、さまざまな施術を受けた。 特に夜尿症はひどく、寮生活を始めて2年間つまり、中学2年まではこれに悩んだ。 寮の仲間にも「秘密」でふとんも干せず、濡れてジットリしたふとんの上を上手に脇によけながら、体を硬くしてトロトロと眠ったものだ。 「流注下し」とか「トリプタノール」というのを母親に飲まされ、朝は殆ど眠りかぶって登校した。 後になって母から聞いたのだが、母はもっと悲惨だったらしく、夜中じゅう父の方揉みやら足揉みやら、風呂を沸かし(昔は薪を割ったものを燃やして、風呂を焚いていた)たり、時には明け方まで父に鍛われたらしい。 その為、多々は朝は大概眠っていて、「玉子ごはん」なるぶっかけ飯を弟と二人で食べて、学校に行った。結構、旨かったですけど。 小学校の時の良い思い出と言えば、運動会ぐらいだ。 走りが早かったので、殆どのリレー種目に出場し、花形だったので少しスター気取りだった。 父の遺伝であろう。 父は、陸上五種競技で国体に出場したらしい。写真がある。 後は殆ど地獄のような小学校時代。悪い夢を見ているようであった。だから、今でもあまり思い出せない。 何回も家出して、車の中で眠ったというような、トラウマめいた記憶は、30代後半になって、種々の「心のセミナー」に参加して、初めて甦った記憶だ。 「日本創告教育研究所」という自己啓発セミナーに、患者さんから勧められて、36才のときに参加したのを皮切りに、さまざまな心のセミナーを受講した。 東京、大阪は言うまでもなく、ハワイや米国本土まで出かけた。 まさに「心の旅」だったわけだ。 しかし、父親は何故かとても好きだった。夫婦喧嘩の映像が今でもありありと脳裏に浮かぶが、殴られている母よりも、殴っている父の方が、どこか気の毒なくらい悲し気で寂しそうに見えて、 「どうかお母さん、素直に謝って」なんて思ったものだし、頑なな母にはいつも苛々していた記憶がある。 夏休みは毎日、川に泳ぎに行って、夕方遅くギリギリまで遊んだ。 夏休みが終わって、9月半ばくらいまで泳いでいたような気がする。 ガタガタ震えながら一人で泳いでいたのを、ボートに乗った二人連れのお姉さんに助けられたこともあった。 弟は本当に可哀相であった。 手のかからない「子供」として、殆ど放任というより放ったらかしで、兄(私)には、しょっちゅう殴られ、母には身のまわりの世話をされず、おめかしの兄(私)のくらべ、お下がりのみすぼらしい身なりと いつも汚れた顔は、まるで浮浪者のようで、弟をタネに友達から、よく冷やかされたりした。 真実は、私の方がいつも弟には頼っていた。 元来、臆病者の私は、小学校時代は殆どどこへ行くにも弟を伴い、危険な飛び込み台や、墓地や、薄気味の悪い公園や、山の探検では、必ず先行させ、安全を確かめてから、自分が実行した。 全く、我ながら卑怯な男だ。 つづく。 ありがとうございました。 追記【1】 母はいつも着物を着せられていた。モチロン、父の好みだ。 だから、あまり着物は好きではない。 こうして振り返ってみると、小学校時代の方が、記憶は鮮明ではないが、今の心への影響という点では結構深い気がする。 就学前も、家は荒れていたらしいが、長男の初孫(母方)であるから、幼児期の写真、横浜時代のものがアルバム一冊あり、我ながら涙が出る程、愛されたような形跡があり、このことが、今の自分の心の強さの強固な背景になっているように思える。 つまり、とても愛情深く育てられたということだ。 幼児期の表情は、小学校時代にくらべ、明るく、陽気で、晴れ晴れとしている。 追記【2】 幼児期、横浜時代のエピソードとしては、三輪車で、幼児としては電車通りをいくつも越えて「遠出」を繰り返し、親をいたく心配させたらしい。 今年の春亡くなった叔父から聞かされた。この叔父からはよく銭湯に連れて行ってもらったらしい。 溺れさせたという話も聞いた。 つづく・・・。 たくま癒やしの杜クリニック 浜田朋久 |