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■ 自叙伝【1】(あらすじ) | 2007.12.18 |
「濱田朋久 自叙伝」という表紙の、某生命保険会社から頂いた、「単なるメモ帳」が、まるで自分の著書のように、医学書その他の雑書と並べて、診察室にジョークで置いてある。 患者さんの何人かは、目ざとくその「本」ではない『本』を見つけて「読みたい」とか「買いたい」とかおっしゃるので、まだそういう年ではないけれど、「自叙伝」なるものをチョット書いてみようと筆を執ってみた。 昭和28年12月3日に、横浜市で当時父、隆春(25才)、母、文香(24才)の長男として生まれた。 とても寒い年だったと聞いている。 父は、横浜市の佐藤病院という民間の病院に外科医として働いていて、母は、はるか九州の実家を離れて、夫の勤務地へ父の妻として(当たり前か?!)伴って暮らしていた。 神奈川大学に入学していた叔父、つまり母の3番目の弟と、確か4人で住んでいた筈だ。この当りは詳細不明。 母は、今や地元では有数の造り酒屋(実は焼酎屋)の8人兄弟の長女で、父は、同じ九州熊本の地元熊本県球磨郡多良木町の神社の神官宮司の長男で一人息子となっているが、実は養子である。 子供のいない、祖父母の元へ、これまた8人の子を持つ、祖父の弟の2男を養子として、出されたワケである。 このあたりをまとめると、 ・7人の弟を持つ造り酒屋の長女と ・8人兄弟の2男であるが、宮司の養子として育てられたが、医者となった一人息子長男の結婚で、その長子長男として生まれたのが私である。 父は昭和2年10月28日生まれ 母は昭和3年3月8日生まれ 世相の暗い、昭和初期の恐慌時代である。 父は、人吉中学を出て陸軍士官学校に入学したが、在学中に終戦となり、戦後に改めて鹿児島医学専門学校を経て、昭和24年に医者になって、横浜で長男(私)をもうけ、3年後には熊本県の相良村の診療所に勤め、次男を出生させ(昭和31年に)その5年後の昭和35年に、人吉市の現地に、「浜田醫院」を開業した。私が小学校1年の時だ。この年の12月に妹をもうけた。5人家族であった。 父は横浜時代から、既に「酒乱」の気があり、田舎の診療所勤務時代には、村の消防団の所有する「火の見櫓」の鐘を、酒に酔ってけたたましく打ち鳴らし、村中を騒乱させたり、酒酔い運転で自家用車を民家に突っ込んだり、料亭のお膳を全部川に流したり、旅館の池の鯉を部屋に放り上げたり、畳をひっくり返して重ねたり、街中を長靴を履いて「咆え声」をあげて駆けまわったりと酒態はまるで狂人のようであったらしい。これは他界した後、私の開業後に、人づてに聞いた話である。 私の記憶している限りでは、小学校時代の家庭内の毎夜の騒動や、暴力沙汰は、日常茶飯事であったから、家外での言動行動については不明であったけれども、父のさまざまな奇行狂態を色々と聞かされても、当然ながら、さほど驚きはない。「さもありなん」という感じである。 ただ、素面のときの父は誠に紳士的で大人しく、その相貌は、我が父ながら「神」のように静かで暖かく、春の海のように穏やかであった。 患者さんの評判も概ね「とても優しい先生」というものであった。(まるで「ジキルとハイド」ですネ。) また、物乞いに、1万円ずつ配ったり、はやらない路地裏の寿司店や場末の飲み屋などにワザワザ団隊をひきつれて連夜、蕩尽し、月100万くらい遣って恩を売ったりした、・・・とも聞いているが真偽のほどはさだかではない。 父のその極端な無頼放埓の因果をたどれば、多分、想像であるが、 (1)幼児期に養子に出されたこと (2)軍国的な教育と、戦後の経済的社会的変化への戸惑いや反逆。 父と謂えども、心の内は今でもよく分からない。 その激しく自己破壊的な行動特性の為か、わずか50才で夭折した父であるが、繊細で臆病で心優しい一面と、無頼の徒とも一戦を構える、大胆と不敵と野性を併せ持つ複雑な人であった。 大胆も臆病も、母もほぼ同様で、僅かな地震の揺れでも家内中走り廻ったりする臆病と地元のヤクザとも平然と対峙できる「度胸」の落差と渾然、では一枚か二枚、母の方が上手であったような気がする。壇一雄の「火宅の人」ならぬ「火宅の夫婦」とも言える家内家外の火中に育った長男息子を想像されたら、「自叙伝」の冒頭にふさわしいであろうか?とにかく子供にとっては「刺激」の強い家庭ではあった。 何だかこれでは「あらすじ」になりませんネ。 つづく・・・。(自叙伝は難しい) ありがとうございました。 たくま癒やしの杜クリニック 浜田朋久 |