[戻る] |
■ 死刑! | 2007.12.12 |
人が人を裁くというのは、大変なことだと思う。 極刑と言うと、普通死刑のことを指すが、果たして、真の意味で極の刑であろうか? 自殺者が年に3万人を越える時代に死刑が極刑というのは、おかしい気がする。 「死にたい」と考える人が全て犯罪を犯すとしたら大変な数である。 そういうことは無いだろうという前提が「死刑」が「極刑」という理屈には必要であろう。 以前大阪の小学校で児童は何人も殺したTという男は「死刑にしてくれ」と自ら言っていて本人の望みは見事に叶えられた。 どこか釈然としない。 殺された子供達や親達の気持ちはスッキリと晴れるのではあろうか。 この時はマスコミも大騒ぎして、犯人の実像に一生懸命迫り、視聴者の猟奇的興味関心を惹こうとしたが、遺族の気持ちの問題についてはモチロン触れていたが、果たしてその復讐心を満足させた判決だったのであろうか。 モチロン刑法の目的は社会的にも個人的にも色々なのであろうが犯罪を犯した者が、望みを叶えられ、その被害者がそれこそ、泣き寝入りするしかないというのは、いかにも不公平だ。 さらに、「刑務所に入るのが好き」という犯罪者が数多くいたら、刑罰そのものの犯罪抑止力というのは、殆んど無きに等しい。 刑罰が人々の「死刑はイヤだ」「監はイヤだ」という前提が無ければ、何の意味もなさなくなるような気がする。 多少不自由ではあるが、規則正しい安全な生活を得られる場所としての刑務所。 こころやすらかな永遠の安寧である死に場所としての囚房であるなら、現行の刑罰にどんな意味があるのであろう。 犯罪者にも人種はあり、自立更正への道は開かれなければならないとしても、いかにもむごたらしい殺人事件の結末がただの「極刑」では済まされないと考えるのは私だけであろうか。 もともと復讐心の強い人々ならば、少しずつ、苦しめながら殺すとか衆人の中で晒し首になるとか昔の拷問みたいな残酷な刑罰も意味があったのではないかと思える。 何十人も殺した連続殺人犯がただの死刑刑務所では物足りない気がする。 犯罪のむごたらしさと、その多様性と複雑さにくらべ、その刑罰の単純さにはヨクヨク考えてみると、いかにも不公平で理不尽で唖然とする程驚かされる。 イスラム教には、「目には目を歯には歯を」と犯罪者には、被害者被害者と同等の苦しさを味わってもらうという思想があるが、それは以前はとても愚かな考えに感じられたが、今は或る意味で理にかなっていると思える時もある。 ありがとうございました。 たくま癒やしの杜クリニック 浜田朋久 |