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■ スウィートメモリー | 2007.12. 9 |
松田聖子の歌じゃありません。 「甘い記憶」と訳すのであろうか? 大概、「色恋」の思い出になるのであろうが、今回は、それ以外のメモリーをいくつか記してみたい。 マルセル・プルーストの大作、「失われた時を求めて」は、母親の寝る前に作ってくれた暖かいミルクと、「おやすみのキス」の追憶的物語が、延々とつづくそうだ。最初から読む気もしなかったけれど、そういうものだろうと思った。 トルーマン・カポーティの一連の短編小説も幼児期の「叔母さん」のやさしい「おやすみのキス」への郷愁をいくつか描いたものがある。 人間の場合、最初の甘い記憶とは、母親か、それに替わる養育者に与えられるものらしい。 自分にもそれは確かにあったと思えるのであるが、庭先で、母親に抑えられて、イヤイヤ写真に撮られている写真も、その頃を想起させてはくれないけれど、確かにカラダにも心にも残っている感じはする。 この頃気づいたことですが、この時の写真の母は、私のタイプの女性の顔をしている。 父のカタグルマの写真もある。 母はそばでカメラに向けてポーズを取っている。 背景は動物園。いかにも幸福そうな親子写真だ。 構図が芸術的に決まっていて、ナカナカの秀作だ。 地獄の小学生時代を飛び越して、中学からの寮生活。 全体としては、やはり準地獄だったけれど、時々、一人で見に行った映画は最高だった。 ケーリー・グラント、オードリー・ヘップバーンの「シャレード」は、中学生の時に見た。 学校をさぼって、オートバイで一人か二人しか入っていない映画館に入り、タバコを吸いながら見たフランス映画は、最高だったですネ。 アラン・ドロンという俳優の大ファンだった。例の眉間のシワも一生懸命真似して運を悪くした。 友人から借りた大型オートバイで、ツーリングも素晴らしい記憶だ。こんな快楽があるのだろうかと、朝早く起きて夕暮れまで、1日中乗っていたのを思い出す。 中学3年の秋、女子高の学園祭に一人で行って、とても貴重な体験をした。 教室に女子生徒が集団で何か催しをやっていたところに一人でその教室に入って、後ろで立って見物していたら、前にいた女生徒の集団が、突然に何かの拍子に将棋倒しに後ろに倒れて来て、制服姿の女生徒たちの集団の下敷きになり、天国のような素晴らしい感覚を味わった。 中学、高校と男子校だったので、その女生徒達の匂い、柔かいカラダの感触、髪の匂い、「キャー」という甘く高い声、などに自分一人揉みくちゃになり、みんなが起き上がってしまうまで、天国のような新鮮な甘い陶酔感を味わった。何もかもが柔かいのだ。 ホンノ一瞬ではあったけれど、何と言ってもこれが少年時代一番のスウィートメモリーだ。 マチガイナイ。 ありがとうございました。 追記 色恋意外と最初に断ったが、「色」にはなってしまいました。 スミマセン。 たくま癒やしの杜クリニック 浜田朋久 |