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■ 所有欲 | 2007.12. 7 |
新潮45という雑誌は人間の数々の陰惨な事件を、これでもか、これでもかと読者に突きつけて来て、深夜に読むと、自分自身を含めた人間というものへの恐れとおぞましさに身の毛もよだつ心持ちを抱かせられる。 安眠には不適だ。 それぞれの事件の背景にあるワケありの男女を中心とした親子、兄弟、隣人あるいは、見ず知らずの人間の間に繰り広げられる、おどろおどろしい愛憎劇は、読みなれてくると、むしろ平和で満ち足りた幸福な家庭の団欒のように恐ろしくワンパターンだ。 それは一言で言うなら、愛と欲。 男女の愛欲ほど、業の深いものはない。 けれども、そこには不思議なほどの純粋さも感じられる。 見栄や虚飾を捨てさった生の正直な人間の姿が、ギラギラと露骨にあらわになるという点で、或る意味とても透明なのだ。 欲の根源は所有欲だそうだ。 所有欲さえ持たなければ、男女間も愛情問題も金銭問題もずい分とアッサリ、サッパリして来る。 まず嫉妬というものは無くなる筈だ。 「この人は私のものヨ」「この金は私のモノです」 「この女はオレのものだ」「この土地は私のモノだ」 考えようによっては、まるで子供の感覚なのだ。 人間が人間を所有することなど、ホントウにできるのであろうか。土地や金の人間の所有には時間的な期限が厳格に存在する。人間にしても昔の奴隷ならイザ知らず、今や、夫婦や親子であっても、真の意味の所有は難しい。こんな時代に生きているのにもかかわらず。 ここら辺の感覚のズレが、多くの愚かな人々の心の中にあり、さまざまな事件の背景に必ず存在する。 試しに、この新潮45に掲載されている、事件のひとつひとつを丹念に読みなおして、そこに激しい人間の所有欲を抜き去って読んでみたら良かろう。 事件そのものが殆んど全く生じえないことに賢明な読者ならば気づかれるだろう。 ことほど左様に所有欲とは厄介なものなのだ。 逆に考えてみると、この所有欲さえなければ、人生は軽々として明るく、淡々として楽しくなめらかなものになるにちがいない。 自分の肉体や、生命さえも大いなる運命に預け切り、まるで生まれたての赤子(せきし)のようにやすらかに、慈母のような大自然の愛の中に抱かれ、まかせ切ってくつろげば、「所有欲」などという厄介な、苦悩の根源など、気軽に捨て去ってしまうことができるかも知れない。 愛と所有欲はちがう。 自分の心に本当の愛が無いから、つまらない所有欲などに走るのだ。 自分自身の心を荘厳華麗な、宮殿神殿、パラダイス、桃源郷にしてしまえば、どんな所有欲も湧き上がって来ない・・・筈だ。 理屈では分かっているのですけどネェ。 ありがとうございました。 追記【1】 動物にも食欲、性欲はある。 ひょっとしたら、愛もあるかも知れない。 しかし、所有欲はない。 人間より、はるかに気楽であろう。 冬の空を、音もなく西の端から東の端まで横切る一羽の鳥を眺めながら、少し、羨ましくもあった。 |