[戻る] |
■ 四丁目の朝日 | 2007.11.14 |
娘と「象の背中」という映画を観た。 ストーリーの展開は「明日の記憶」に似ている。 「お父さん」が病気になって、家族が支えるという展開。「明日の記憶」は途中で帰ったけれど、高2の娘の手前、何となく帰れず、最後まで観てしまった。 最も観たくないパターンだ。 象は死期が近づくと、群れを離れ、人知れずひっそりと死んでいくらしい。それでこの題となった。 だから象というのかな〜。人+象=像。 この「象の背中」という映画のメッセージは、家族に看取られながら死んでいきたいということらしい。 最期は、ホスピスかなんかで、それこそ家族の見守る中「お父さん」は死んでいく。あ〜あ。イヤだなあ〜。 私は象の方が良いと今はまだ思う。 イザとなったらワカラナイ。人間だもの。 「三丁目の夕日」続編も見た。 こちらの映画の売りは、昭和30年代当時の東京の素晴らしいCG映像と、暖かい下町の人々の交流を描いて、涙の出る感動映画だ。 なんで、朝日でなくて、夕日なんだろう。 当時の人々の家族団欒への懐かしい郷愁とオマージュ・・・かな!?。 朝は仕事と家事と学校の始まり。 どちらかと言うと、家から見ると外向き。 三丁目の夕日とは、下町の夕暮れの中の素朴で純心な人々を照らす、暖かく切ない陽光。 映画は羽田空港や東京駅、その他、東京の街の風景が、あたかも現実に存在するかのように、見事にCGで再現されていて素晴らしかった。 私自身は「象の背中」も「三丁目の夕日」も、実のところノーサンキュー。 映画は面白かったけれど、自らはそういう時代をくぐり抜け、有難くもあり、懐かしくもあるけれど、どちらも苦手である。 家族の愛情に保護され、育まれたと同時に、その強力な呪縛に苦しめられた。 家族間の口論程、嫌なものはない。 もともと、家族とは、感情のぶつけ合い、口論で成り立ってもいるような気がする。 小津安二郎監督の映画では、家族間のいさかいや、口論や行き違いが静かに上品に描かれて、何度見てもあきない。 この避けて通れない難しい人間関係を、自らは、避けて逃げまくっている。 全くもって卑怯だ。臆病だ。 しかし、その中に浸っていたら仕事もできないくらいエネルギーを取られる気がする。気のせいかも知れないけど。 いつも孤独な大人でいたい。 少年時代の夢は、映画「華麗なるキャツビー」みたいな世界。 裕福な孤独な青年。 毎晩家では盛大なパーティ。 自分は、その家で静かに超然と在る。 こういう自己イメージと心像で眠っていると、安らかに眠れる。 夕暮れは美しい。 それより、朝日はもっと美しい。 今日という一日の始まり。 一日一生と考えれば、言うならば出生だ。 夕日は死の前兆。愛と死の前ぶれ。暖かくもあり、おだやかでもあるけれど・・・。休息には良いけれど・・・。 ありがとうございました。 たくま癒やしの杜クリニック 浜田朋久 |