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■ 死ねばいい | 2007.10.31 |
いきなり過激な言葉ですが、これが意外に肯定的な表現なので、解説します。 「落ち込む〜」とか「死にたい」とか「生きているのが辛い」とかの相談を受けて、思わず表題の言葉を即答してしまった。 実際に「死ぬ」というワケではない。 死んだ時と同じような気分と状態を「生きている」状態で感覚できれば「楽になる」のではないか。というアイデアである。 「死ねば楽になる」 これは真実であろう。お釈迦様の言葉でも、人生は苦のシャバ。生きるとは苦であると言い切っている。 生と死はコインの裏表と先述したが、実は、生と死は毎日は、形として繰り返されている。それは、覚醒と睡眠だ。 「眠りと死は兄弟」という推理小説があったが、この表題が妙に心に残ってどんな意味なのか、何となく考えつづけて来て、最近少しずつ、確かに眠りは死と同じような質のものかも知れないと思うようになった。 心を病んだ人々は、水を枯渇させた砂漠を行く隊商の集団のように、眠りを欲しがる。 潜在的に人間は、砂漠の中のオアシスのように死を欲しているような気がする。死は、心地良い眠りのようなやすらぎを得ることなのであろうか。このやすらぎは永遠の眠り。 その上、多くの人は笑いながら死ぬ。 生まれて来る時は、泣きながらなのに・・・。 そういう意味で、「死ねばいい」というアイデアは、実のところ私の本音でもある。 眠りと同様に、心地良い体験が他にもあるのだ。実は、これまで何回か書いて来たように、「瞑想」とか「座禅」とか、それに近い感覚を得る作業のこと。 この感覚も、深いレベルだと、性のエクスタシーに優るとも劣らない心地良さを得ることができる。 生と死と眠りと瞑想・・・。 死がたとえ深い快楽であったとしても、残念ながらそれは一生に一回しか味わうことができない。 モッタイナイから、皆さん瞑想で我慢しましょう。 死にたくなる程、生きることが辛くなったら、少なくとも、心地良い眠りか、瞑想を選択してみるのも良いかもしれません。この感覚は、深い静かな呼吸と、それこそ「死んだような」脱力感覚で実はカンタンに手に入る。 少しの練習と、それをする意思さえあれば・・・。 ちなみに、件の相談された方は、この助言と簡単なリラックス実践で楽になられたようだった。 メデタシ。メデタシ。 ありがとうございました。 追記【1】 この文章は友人と電話をしながら書き上げた。 我ながら、器用だなあと思う。 どういうアタマなのであろう。 モノの本によると「ながら」は良くないということになっているが、何事もそうであるが、人それぞれ、マチマチであろうと思う。 要は自分にフィットすればそれで良いのではないか・・・。 追記【2】 「死人となりてなり果てて 思うままにする技ぞ良き」 昔の有名な高僧の有名な言葉だ。 人間、本来無一物、究極的には自分すら永遠に所有することはできない。 人生には限りがあり、すべての人に公平に死は訪れる。 まるで死人のように「我」「エゴ」などを「捨てきって」生きればさぞこころも体も軽々と晴れ晴れとして「素敵」な気分かも知れない。すべての苦しみのもとはどうも「エゴ」や「我」らしいから。 エクスタシーというのは「外に立つ」という意味。生命の外に出る。 性のそれも実は「無我の境地」なのだ。強烈なエゴ(性欲)の後に訪れる空しい虚脱をともなった「無我」。よくわかりませんけど。 エゴを「捨て切」る「素適」なんちゃって。 ありがとうございました。 たくま癒やしの杜クリニック 浜田朋久 |