[戻る] |
■ 結婚式 | 2007.10.29 |
ここ10日ばかり、祝宴がつづいた。 最後は結婚式の昼・夜ダブルヘッダー。 個人的に重要な方々だったので、珍しく昼夜出席した。 結婚式の映画というと、有名なマイケル・チミノ監督の「ディア・ハンター」だ。3時間映画のかなりの冒頭部分が結婚式シーン。ロシア系の米国人のパーティーで長々とつづく。 もうひとつは、あの有名な「ゴッド・ファーザー」。これも、結婚式で始まる。イタリア人作曲家ニーノ・ロータの、哀愁を帯びたテーマ音楽と父と娘のダンスシーンが印象的であったが、ただの結婚式というだけでなく、物語全体の重要な配役が全て分かるようになっている。(この映画は壮大なホームドラマという説あり。重要なキャストとは、それこそ「ファミリー」のことだ。) 黒澤明、小津安二郎など、世界中の映画ファンを魅了した、日本人監督の二大巨匠も、結婚式シーンはお手のもの。素晴らしい映像美と共に、結婚式というものの、人生における重要性をありありと表現してくれている。 世間では、冠婚葬祭と言うが、どんな人の人生の中でも注目されるのが、少なくとも「生」と「婚」と「葬」だ。 出生 婚姻 そして死。 婚姻は「生」を創り出す場でもある。 人間の宿命は、この3大イベントにすべて凝縮される。大概の人は婚姻関係を持つ男女の間に「生」を受ける。 人生の評価は、棺桶に入るまで解らないというのが、定説であるが、これは少し哀しい。 一時的に、栄華を極めた人物の晩節に、脱税とか不正、贈収賄等の犯罪事件が起こり、末節を汚してしまうというのは良くあることだが、その人物の創り出した「功」の部分が全て消し去られるのは、モッタイナイなあ・・・と時々思うことがある。 結婚というのは、結末でもあり、出発でもあるが、かなり出発に近い。婚姻という社会の制度で創り出された人間のカップルには、無限の可能性があると同時に、また多様な不幸の萠芽も含んでいる。 無邪気に慶賀できない経験と知識を得てしまった。そういう年齢に達してしまったのだ。哀しいですね。 そういう目線で、冷ややかに、しかし暖かく、若い二人を見ている。自分の年齢を意識しながら・・・。 席次表に載っていないと怒る人がいた。自分もそれを経験した。私は怒らない。何故か。注目をあまり必要としないからだ。自分のことは、自分が正確に明瞭に見ている。自分が「自分」という映画の主人公みたいな感覚なのだ。 だから、一人でいても、名前が載らなくてもOK。注目は嬉しい。しかし、注目されなくても良い。そんな感じだ。 テーマパークなどで、名前をコールするサービスがあるが、あれは無条件に嬉しい。 しかし、それを心理的に利用されるのは口惜しいし、逆に嬉しくない時もある。 例えばホテルなどで、フルネームで名前を呼ばれたりすると、ゾッとする。ホテルとか、映画館が好きなのは、その「匿名性」だ。 「ひとりでいたい」欲求を孤独を感じずに満たしてくれるのはやはり映画館とホテルだ。軽い治る病気なら、病院も良いかも知れない。 出産祝、還暦祝、結婚式、その上仕事の成功祝、大学の同窓会まであった。 教授とか、成功している開業医、子供の就学の好調な人々が集まる。 みんな他者の承認が欲しいのだ。 正直なところ、自分もそうだ。 しかし、やはり「自己承認」に勝るものはない。 それが強力であれば、他者の承認などは不用であるから、自分の名前が世間の悪い風評に晒されても微動だにしない。 ありがとうございました。 追記【1】 愛し合った男女が、結婚式やらセレモニー、婚姻届などで確認しあうのは、或る意味、相手を真から信じていないからかも知れない。 本当にお互いを信じているならば、そのような世間や法律上の認知など不要な気がする。 自らの婚姻暦、離婚暦に照らしても・・・。そう思う。 たくま癒やしの杜クリニック 浜田朋久 |