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■ 日常を楽しむ | 2007.10.27 |
今の日本に暮らして、仕事もあり、家族もいて屋根のある家に住み、三度の食事が味わえれば、健康ならそれだけで楽しいことではないかと思う。 「つつましく暮らす」それは素晴らしいことではないかと思う。子供を立派な人間にするというのは。ある意味最も偉大な人生の大事業なので、所謂、「専業主婦」というのも社会にとってきわめて重要な役割を担っているということになる。 その上仕事や種々の活動を通じて少しでも、社会や人様のお役に立てれば人生本望だなんて、時々思う。我ながら、随分、殊勝なことを言うなあと思うけれど、全く、真実の気持ちだ。 少しくらい、お金があろうと、身分や地位があろうと、せいぜい70〜80年も生きれば、誰でもポンコツの車と同じで人間も錆びつき、朽ち果てて行く。 そういうベーシックな部分での、満ち足りた幸福感というのがあるので、少々のストレスや、ハードワークやトラブルでも意外に気にならない。 降って湧いたような幸運の連続なので、少しくらいの事件や陥井は、当たり前という気がしている。 今ここに、生きているのが奇跡という有難い心持ちで、自分の肉体をしみじみと眺めると「あ〜これが俺の肉体」と何かしら不思議な感覚が催される。 仕事柄、他人のカラダやココロばかり見ているので、特に、自分の肉体は奇妙に「我が物」と思えない。 第一、ここ何年か、鏡というものを見ないようにしているし、手も見ない。何故かというと、鏡で顔を見ても手相を見ても、満足できず落ち込むからだ。自分を直視するのをできるだけ避けている。臆病なのだ。基本的に。 しかし、手や足や背中や腰をくねくねと動かしてみて、自分の意のままに動くし、物を見たり、文字を書いたり、音楽を聞いたり、人と話したりこんな風な多くの人間の持つ基礎的な有難さは、やはり、無くしてみないとわからないのであろうか。 人間の思考は、どうしてもネガティブな方向に向かいやすいらしい。 考え事の多い人というのは、不平不満や心配や悩みも多いという印象を受ける。 時々、瞑想というのをするので、一切の五感覚をとりあえず閉じて、少しだけ無思考というか、虚無の世界に入ると、思考と欲望と、その他の五感の感触の喜びを改めて味わうことができる。 つまり、一旦、ゼロベースというかニュートラルというか、生前というか、死後というか、自らの人生を「生の外」に少しだけ置いてみて、「生の内」に入ると、その喜びも感じ取りやすいのではないかと考えている。 このような感覚は、どうしても言葉では伝えにくいので、実際に瞑想みたいな自己作業をされたらいかがかなあ・・・と思う。どんな境遇であれ折角生まれてきたのであるから「日常を楽しむ為に」 ありがとうございました。 たくま癒やしの杜クリニック 浜田朋久 |