コラム[ひとくち・ゆうゆう・えっせい]

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■ アイデンティティー2007.10.25

ボーン・アイデンティティーというヒット映画があって、好きで何回も見ている。
マット・デイモン主演でシリーズ化している。
ボーン・スプレマシーという第二作も出来た。
第三作も出来る筈だ。そういう終わり方だった。

アイデンティティーと辞書で引くまでもなく、IDカードというくらいで、「自分は誰」を示す証明書みたいなもので、この映画の主題になっている。
物語は、記憶喪失者の、何ヶ国語も話せて、鋭い凶器のようにカンタンに人を殺せる超有能なスパイが主人公で、自分が誰か分からないまま、自分の心の中に自然に備わっているモラルに従って、自分の身に起こるトラブルを解決して行き、それなり、愛を勝ち獲るというような「自分が誰か」ワカラナクテモ幸せになれる。
確か、ロバート・ラドラムという作家の有名なスパイ小説が原作になっている。
DVDで1000円以下が出ているから、相当売れてヒットした筈だ。テンポが良く、主人公もカッコイイので、何回見ても面白い。

映画の話はさておき、
表題の「アイデンティティー」であるが、人間が生きていく上で、結構大事である。
まさか記憶喪失の人等、滅多に診ないから「あなた誰ですか?」と問われて、余程アタマの具合が悪い人以外、答えられない人はいない。

私は○○○○です。とりあえず名前を答えられる。しかし、これからは多くの人は結構平凡で自己紹介なんていうのを聞いても、「アナタは自分のことが好きですか?」という質問に対して、「好きです」「大好きです」と即答される方はあまり多くない。

自分の根源は何なのか、自分は一体誰なのか、真の意味で解答できる人など当然ながら殆どいない。
せいぜい、名前か肩書き、体の特徴とか家族とか、出身地とか住所とか、中には出身大学とか趣味とか特技とか、まるで履歴書に書くようなことを、とうとうと述べて、自分というものを、表現される方がいるが、そういう意味ではなく、アナタの存在はいったい何なのですかと問われれば、リアルに深考してみると、一体自分は何なのかサッパリ解らなくなる。
大体、自分を自分と感得する自分は何なのか、どこにそのセンターがあるのか脳の科学でもまだ解っていないらしい。

全くいつものような論調になって申し訳ないのですが、自分というモノを「存在論的」に捉えれば、時間的には恐らく、ビッグバン(宇宙の始まり)から、説明しなければならないだろうし、
空間的にも、全宇宙の60兆個の星々と同じく、60兆個の細胞を持つと言われる人間は、宇宙そのものを含むことのできる大きな「心」と宇宙のケシツブというかゴミのような、超極小の物理的存在の両方の側面を感覚することのできる稀有な存在と見なすこともできる。

このような、ワケのワカラナイ話はともかく、本当の意味で「自分に自信を持つ」というのは、自分の出身とか能力とか容姿とか年齢とか、そのような履歴書的な自己肯定感を少しだけ高め、優越感的というか劣等感的というか、比較論的なものではなく、純粋に「ありのまま」の人間として、まるごとOKみたいな捉え方が必要なのではないだろうか。

他人の評価や世間の風評等に全く左右されない、確固とした「自信」みたいなものは、少し、何となくでも良いから、「自分」のことを、やや哲学的に深考してみるのも良いかも知れない。
満月の夜の薄青く明るい秋の星空を、しみじみと眺めながら考えた。
静かな晩。ひとり自分の手を見て足を見て、とうしても不思議でならないこの肉体というものの造物の形成の歴史と末路に思いを馳せると、謂わゆる普通に巷に流れる「アイデンティティー」など逆に邪魔くさく感じる。

結論的には、自分がどんな状態であれ、自分のことを好きでいたい。
折角生まれて来たのであるから・・・。
こういう風に考えることができるのも、アイデンティティフィケーション(自己確立)が出来ているからかも知れない。
この感覚を得る為には、出生時からの数年間の絶対的に養護者の保護が必要となるらしいので、やはり、親もしくは親に替わる養育者の存在はどうにも大きい。

両親に感謝。先生に感謝。友人に感謝。
とてもありきたりではあるが・・・。
真実というのは大概とても平凡なものなのだ。

ありがとうございました。


たくま癒やしの杜クリニック
浜田朋久


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