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■ 今ここありのまま | 2007.10.21 |
「人生とは、生まれてから死ぬまでの時間」 このように定義すると、時間というものの貴重さ、重大さが分かる。 しかし、時間を貯めたり、保存したり、止めたりする力は普通の人間には出来ない。 一瞬一瞬、確実に時は過ぎてゆく。 すべての人間、生物はひとときも休まず、死に近づいている。いくら、黄金の日々を生きて、その時間を惜しみ愛おしんでも、残酷に、冷厳に、着々と生命の時計は時を刻む。 何とか、できないものだろうか。 アナタの余命はこれこれですヨと死期を宣告された重い不治の病の人は、益々真剣にこのことを考えるに違いない。けれども、普通に健康に平凡に日常を過ごしている人々でさえ、実は、キチンと死は訪れ、確実にその人間は、この世から立ち去らせる。 全ての人々は、ただ獄舎につながれていないというだけで、死刑囚となんら変わるところはない。 見方を変えれば、自らの肉体という牢獄につながれている。・・・というのがありのままの人間の現実であり、何かしらの重い病か老疾によって、体が意のままにならない不自由な肉体を持たされたならば、或る意味、刑務所に入れられるよりひどい不自由という苦痛を味わうのかも知れない。 ツラツラとこんなことを考えながら、 飛行機の中でひとり乗って瞑想していた時に感得したことであるが フッと 「一瞬は永遠」であると、それこそ一瞬覚醒したことがあり、今日は仕事中に同じ感覚を覚え、急にすべての出来事や労務が、見事に「極楽」と化した。 人生のありかは、「今ここ」しかなく、人生を大事に慎重に生きるとは、この「今ここ」に集中するのが一番てっとり早い・・・と。 その上、この究極の今ここを得ようとして求めると、それは「無」の世界のはじまりで、広漠とした無限の永遠の生命の光への「針の穴」のような鋭く切り込まれた入り口なのだ・・・というような感覚を得ることができる。 よ〜く体の力を抜いて、心を虚しくして、物事や出来事を自分の心身を含めて集中して注意深く観察してみると、私達はこのことを誰でも感得することができるのではないだろうか。 全てはどうでも良く、全てはOKで、 全ては、感謝の対象であり、 全ては、至福の神の恩賜であると・・・。 ありがとうございました。 追記【1】 心の病気の人々にとっては、 自らの人生そのものが、自身のネガティブな思考と感情と欲望に執われて、まるで、厳しい強制労働の収容所のようなものになってしまう。 これは一見、健康な心を持った人々にも、多少見受けられることだ。 追記【2】 純粋な「今ここ」には思考も感情も欲望も無い。これらの人間の心とか、本能の働きは、一瞬の世界には無く、謂わゆる「苦しみ」というのは、極短であれ微短であれ、極長であれ微長であれ、過去や未来へ心の焦点が少しズレている筈である。 追記【3】 その純粋性という意味では、欲望が一番ではないだろうか。 思考や感情はさまざまな幼時から大人までの教育や、経験に基づいているのに、欲望はそれらに多少修飾させるもののとても純粋なものに見える。 空腹な時の食べ物、渇きの時の水。そして、年がら年中、普通の健康な男なら女性を見るとさしたる説明のできる理由もなく、情欲を感じるのは、よくよく深考してみると、自分自身の創り出したものではないことが分かる。つまるところ、これらの欲望は、神の与えた恩寵であるのだ。 発情期のない私達人間は、只それを楽しめば良いのではないだろうか。倫理やら道徳やら宗教やら自然に擦り込まれた「理性のようなもの」にまどわされずに。 要は、ゴチャゴチャ考えたりせずに、欲望のままにそれを楽しみながら生きて、周囲の人々に楽しみを与えていければ、それはそれで充分「悟り」の世界を生きたと言えるのではないだろうか。そういう人なら「貪欲」という「欲」をクリアできれば、 逆に「知的」で「無欲」な人間に見えないでもない・・・。 たくま癒やしの杜クリニック 浜田朋久 |