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■ 文筆 | 2007.10.16 |
毎晩こうして文章を創るのが楽しみになった。 文章を創っていく過程で、面白いと思ったのは、校正、加筆減筆を重ね、文章がとにかく整い、美しくなればなる程、「真実」から遠のくという気がする・・・ということに気づいたことだ。 原始文章の方が、文のカタチとしては拙劣であるが、素文であるのでより真実に近いのは当然かも知れない。 いずれにしても、「現実」を文字という記号に書き換え、ハメ込んで行く作業を文筆業と考えれば、ドンドン現実から遠ざかっていくのに、人々は文字や言葉にしたものの方を信じやすい。 こう考えていくと、人の書いたものをあまり安易に信じない方が良いように思える。 これは、自分で書いてみて分かったことである。 早坂茂三(故人)という、元田中角栄首相の秘書で、政治評論家は新聞は嘘八百であるから、死亡蘭しか信じないと断言しておられた。 余談であるが、先年無くなった後藤田正晴という警察庁長官で、これまた、田中内閣のときの官房長官だった人物は、テレビは見ないとおっしゃっていた。 何故なら「腹が立つから」だそうな。 現代人の多くは、テレビや新聞という情報媒体を通して、社会を見ているワケであるし、また、それ以外にリアルに「見る」というのは、困難に感じるのでどうしても多量で安易な情報媒体に「感じる」テレビや新聞に頼らざるを得ない。 そういうワケで私は、用心用心して情報媒体を選択し、その情報の出自が誰であるか。目的や意図や、背景は何であるか、よく考えて吟味するようにしている。案外本や論文雑誌みたいなモノの方が真実味があるというか、著者がハッキリしていて、つまり文責が明瞭で、少なくとも無責任には感じない。 何回か新聞や雑誌のインタビューに答えて、実際に自分でその記事を読むと、自分の意図や真意が、まるで違って表現されていたという経験もあり、益々、マスメディアを信じなくなっている。 「街の声」を聞くなどというのは、いったい、どういう意図があるのか。 ただの通行人に聞いた、特に予備知識も深考もしていない人々の「声」がどのような意味を持つのだろう。 何千人、何万人もその声を拾い上げて、平均的な内容なら少しは説得力もあるが、一個人一思いつき的発言を、恣意的に選択して、テレビの画面に流せば、国民の感情や思考は混乱し、あきらかに安易なその意図に載せられてしまうのではないだろうか。 先日の参議員選挙の前後には、このことをハッキリと確信した。 メディアは何らかの悪意、良意は不明であるが、意図を持っている。 或る意味仕方のないことだ。 民放や新聞については、広告会社を通じて入ってくる企業の広告収入に頼って運営されており、その番組の価値は「視聴率」によって評価され、価値づけられる。 一方NHKは、形としては国営放送であるから、或る意味国家のプロパガンダとも言える。 いずれにしても、国家もメディアも必ずしも国民の幸福や福祉の為にだけ情報を流しているワケではないということを認識すると、もっとそのような情報媒体について「疑念「」を持って慎重に取捨選択していく必要があると思う。 自分を守る為に。 基本的に、個人的には「性善説」に基づいて「人」を信じる。 しかし、集団とか組織とか国家とか社会の声みたいなものはあまり信じない。 要は、自分の頭で考えること。 これが肝心である。 私たちは闇雲に何でもかんでも信じるワケにはいかない。 ただ、考える、読む、書く、時に話を聞く、そして現場現実を見に行く。 だから、私も旅は嫌でも度々遠方にも、情報を求めて、怠惰怠慢の心を持った初老の重い体を、あちこち移動させ、本屋にも足繁く通う。 この文章も、決して盲信してはイケマセン!どうか、よく吟味、咀嚼され、疑念や反論もお持ちいただきたい。 何かのお役に立てればと思い、筆を執りました。 たくま癒やしの杜クリニック 浜田朋久 |