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■ オートバイ | 2007.10.14 |
今でも、本当に心から落ち込んだ時には、オートバイに乗る。 ライダージャケットをはおり、手袋をはめ、ヘルメットをかぶり、ブルーの愛車カワサキGPZ1100に跨る。 大概、深夜か早朝。一番危険な時間帯ながら、スリルと緊張を求めて乗るワケだから、気を引き緊め方は同じ。 車と違い、呑気に操作するワケにはいかない。油断すると生命が危ない。 就学前の幼児期に、約一週間程、子供のいない田舎の祖父母のもとへ、預けられたことがある。 この時の思い出は、鮮烈に記憶している。 仏様のように優しい祖母と寡黙で俊厳な祖父との広々した田畑に囲まれた小さな小川のほとりの屋敷でのほんの数日の生活は、今でも心の奥にいくらかの鮮明な映像と共に深々と刻まれている。 暗い土間での玉子ごはんと、味噌汁の朝食 小川の魚獲り 祖父の文字教育 かいこ棚と祖母 ひとりきりの絵描き 神社の掃除(祖父は神官であった) 夜は、田舎の大きな屋敷らしく、周囲は真っ暗で電気もなく暗く、シンと張りつめたような冷え冷えとした空気があり、父親が恋しくてたまらなかった。 確か、預けられた何日目かに父がやって来て、迎えに来てくれたと思ったのに、自分を置いて、オートバイでサッサと帰ってしまった時には、ショックのあまり倒れそうであった。 急いで祖父母に分からないように裏の水飲み場で、一日中泣きつづけた。 水道の下の小さなタイルの目地まで思い出す。このときの涙は、父の死の床の枕元での通夜の涙と殆ど感じ方の程度は同じである。 それ程衝撃的な置き去り感覚であったようだ。 一週間目くらいに、本当に迎えに来てくれて、父の背中に背負われ、オートバイに跨った時の深い安堵感と、喜びと、爽快な感覚は忘れられない。 素晴らしく爽やかな風に乗って、空中を浮遊する鳥の気分であった。 そのようなエピソードの為か、オートバイは時々痛い目にあいながらも、今でも永遠の憧れであり、郷愁である。 父の死後、母の言葉によれば、父も本当は、祖父母の為、長男(私)の為、一ヶ月ぐらい「預ける」つもりであったらしいが、自分も寂しかったらしく、早々に息子を迎えに来てしまったらしい。 ありがとうございました。 追記【1】 何故、いつも父なのか不思議。母の印象は、幼児期には殆ど記憶にない。 たくま癒やしの杜クリニック 浜田朋久 |