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■ 金持ちの法則 | 2007.10.10 |
こういう表題は読んでもらえると思い筆を執った。 某大学の「金持ちになる人の研究」によれば、共通しているのは意外なことに「寄付」をする。 ということらしい。 新聞やテレビに報道されたり、何か記念碑やら記念品に名前を刻まれたりすると、それは「広告宣伝」になるから、少しく効果は落ちるらしいけれど寄付は寄付なので、その行為をした人を金持ちにするそうだ。 「寄付」をすることで、お金は一瞬減じるワケだが、逆に収入が増えてしまうらしい。 一般的にはケチだから金持ちになると考えられているが・・・。 昔、伊丹十三監督の大ヒット映画、マルサの女では、主人公の大金持ちの脱税者が金持ちになる秘訣を問われて、「ボタボタ落ちてくるしずくを溜めるコップになぞらえて、少し溜まってきて飲みたくなっても飲まずに、溢れてコップの淵から垂れてくる水をなめる」という表現で「吝嗇」を勧めていたが、実際はそういう単純なモノでもないらしい。 ユダヤ人は、富裕層の割合が最も高い民族であるが彼らの金銭感覚がふるっている。 例えば、10万円の収入があるとすると、1万円は税金に、1万円は寄付にまわすそうだ。つまり、収入の2割は人の為にということらしい。 世界中から集まった莫大な「寄付金」は米国を中心にさまざまな国々でロビー活動や政治資金として使われ、巡り巡って自分達に利益をもたらす。 このような生々しいお金の流れを別にしても、仏教の世界でも、「托鉢の理論」というのがあって、托鉢の僧は、金持ちの家の門には立たず、貧しい人々の家の前に立って、金品、食物を乞うのであるそうな。 つまり、貧しい人々に「与える」「寄付する」ということを学ばせる、馴れさせる為に、奉仕として、托鉢をするとのこと。 決して、ただの物乞いではないのである。托鉢の僧達にとって托鉢という行為は、「奉仕」と「修行」の両方の意味を持つということだ。 「ユダヤ人の寄付」、東洋の「托鉢」、さらに、キリスト教徒の中でも経済的に比較的安定しているプロテスタントの人々の寄付好きは有名である。 昔は、日本にも篤志家と呼ばれる分限者(お金持ち)が国中にいっぱいいて、寄付する「与える」のは当時の富裕層のひとつのならわしであった。 ヨーロッパでも「ノブリス・オブリージェ」高貴な人々や富める人々の義務として、弱者救済は社会の常識、当然であってしかるべき行為であった。 かくして、このような理論から富める者はさらに富み、少しも人に与えることをせず、ギャンブルや飲食や酒色、どうでも良いブランド品や贅沢な品々の購入に明け暮れる人々は、さらに貧窮していく・・・。という次第である。 富裕層への、最も近い高速道路は、案外、「寄付」かも知れない。 追記【1】 わずか30年あまりの大人の生活経験から言うと、自分の為に使ったお金はすべて、消えてしまい、身内を含め人の為に使ったお金はすべて、何かちがう形で倍になって返って来た。 何しろ精神的満足感は、多少自己満足的であっても人に使ったお金は、最初は惜しいが、5年から10年くらい経つと「良かった」と心から思う。 一番の無駄遣いはやはり、自動車であった・・・。猛省中。 追記【2】 個人的には無駄遣いの第一は、家、クルマ、洋服である。 家はともかく、クルマや洋服は数年経つと、ガラクタやゴミと化す。 リサイクルショップに行くと、ゴミの再生品が数百円で並ぶ。 洋服はゴミ。 食べ物はウンチになる。 ここまで言うと、今日の経済活動すべてを否定することになりそうですけど。 スミマセン。 追記【3】 与えるというのを「行為」にして感覚するには、一法があって、試しに汚いゴミだらけの公園なんかに行って、ゴミをかき集めて、キレイに掃除して見られたら良いだろう。 殆ど確実にそういう自分を好きになる筈だ。 この自己肯定感こそ自らを富と幸福へと導く。マチガイナイ。 ありがとうございました。 たくま癒やしの杜クリニック 浜田朋久 |