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■ 使命感 | 2007.10. 9 |
私達は、何億年、何万年も前の光を見ることができる。想像も出来ない気の遠くなるような宇宙の彼方から、長い何年も何万年も何億年もの悠久と言える時間をかけて、暗黒の宇宙を旅して来た星々の光。愛おしいとさえ思うときがある。 秋の夜空に燦ざめく星々は、冬の空のそれと遠い、どこかしらおぼろげで、月明かりや暗い灰色の雲の間で、チラチラとたよりなげにかぼそい光点を暗青色の夜空に散座させている・・・ので、やはりさらに愛おしい。 3階建ての病院の窓から星を見ていると、眼下の街の灯を、暖かく見守ってくれているようにも見える。 「自分はいかなる星の下に生まれて来たのだろうか?」 すべての、人間として生まれてきた人々も、この問いかけを自分自身に対してして欲しいと思う。心の平和のために。 この人生に何かしら意味があるのだろうか? 素晴らしく偉大な業績を残した人々の人生というのは、大概大いなる愛と忍耐と勇気と意志の物語である。 とりわけ、愛のエネルギーは人類を包み込む程寛く、強大なのではないだろうか。 「私」より「公」 「個」より「民衆」 多少の憧れはあるものの、今のところそのような生き方は遠慮しておきたい。 エゴイスティックに個人的に優雅に生きていきたい。・・・とは言うものの、職業そのものは「公」に奉じるものだと考えている。特に、国家より免許資格をいただいて、医療という仕事をさせていただいているので、どちらかというと私人というより公人として、少なくとも白衣を着ている時は、振る舞うようにしている。 だから、ジーンズにTシャツの時には、「ただの酔っ払いのおじさん」でいたい。 ただ、スーツでネクタイの時は、少しこの、公人用の「衣」を脱ぐことができない。 私の父親の世代のドクターは、どこかしら気骨みたいなものがあって、 「痩せても枯れても・・・」とか 「痩せ我慢の理論」とか 「武士は食わねど・・・」とか 何となくピリッとしていた。 最近は医師不足、医師の過重労働が声高にメディアで取り上げられているが、私の卒業した頃は、医師の「過重労働」など当たり前であったし、24時間働いて当然みたいな教育を受け、父親の後姿からもそれを学んでいたので、多忙についてあまり違和感は無い。 近頃は、医師もサラリーマン化したというか、プロフェッショナルというより、単なるの給与所得者という感覚のドクターも散見され、当直料云々、残業手当云々、給与体系云々、有給休暇云々などと一般の労働者と殆ど変わらない言動も時々聞かれるようになった。 エリート意識 プロ意識 というなら「結果を出してナンボ」。もっと言うなら、全身全霊で「公に奉じる」くらいの志というか意気というものが必要なのではないだろうか。な〜んて言っても私も「口だけかもしれませんけど」 件の医師不足、医師の過重労働が行政のシステム変更に起因しているフシもあるので、少し視点を変えて私の論点をまとめるなら、医師のサラリーマン化による、一人当たりの労働時間の総計的短縮と、女性医師の医師総数に対する割合の増加、高齢医師の一時的もしくは半恒久的引退、さらには新卒医師の「制約的労働」つまり「新しい研修制度」により一気に上記の「医師不足」「医師の過重労働」が生じたと感じている。 医者も人間である。 しかし、医療はどこかしら「聖域」めいた意識が必要なのではないだろうか。たとえば教育とか司法のように。 ありがとうございました。 たくま癒やしの杜クリニック 浜田朋久 |