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■ 夢の名残り | 2007. 9.23 |
あまりに鮮明で、ありありと思い出せる夢は、まるで昔の思い出のように時々自分を慰めてくれる。 内容的に苦しいものでも、それは自分の人生の過去の記憶と同じように、「思い出す」ことができる。 そして、その夢そのものは、現在現実の自分に何の益も害も及ぼしていないから、丁度、面白い映画のようなもので、結構楽しめるというワケだ。 過去というのは、現実には、地球上どこにも宇宙の果てにも存在はしない。 追想という行為は、脳の科学では蓄積された記憶というフィルムを映画のように再現することではなく、想起、追想というものは、新しい創造だそうである。 もっと言うと、「過去の記憶」というのは、どんどん脚色され、編集され、付加され、カットされ、トリミングされて、オリジナルではない勝手な創作物になり得るということだ。 だから、映画や日記や書物の方が厳然としてあるという一方で、「過去の記憶」ほど、怪しいものはないとも言える。 先に生意気にも「自叙伝」なるものを書いてみて、友人や、知人、身内等と照らし合わせ「裏を取って」みると、全然違うことがいくつか散見され判明し、益々「過去の記憶」の不確かさ、いい加減さが「書く」と言う経験で確信された。 このように考えれば、警察での「自白調書」など根本からいい加減であるし、見方を変えて、調書を取る側からすると、簡単に「デッチアゲル」こともできるという風に考えてしまう。 その上怖いことに、「目撃者」とか「アリバイ」とかも、やはり、「過去の記憶」であるからして、それが、「他人のモノ」であることを考慮すると、無責任さ不確かさという点では、「いい加減」の極みであろう。 だから、謂わゆるゴシップ記事「噂の真相」など、誰にも分からないし、さらに、その人の本心内面など全くもって他人の思量をはるかに越えているものに違いない。 フランスの作家、アルベール・カミュの名作「異邦人」などでは、このあたりの感覚を、うまく表現している。 周囲や世間の良識や常識に照らしてみると、その人物の行動や行為「本当の動機」など殆ど理不尽で、不条理で、説明不可能というのが真実のような気がする。 最近、話題になった渡辺淳一の「愛の流刑地」でも、どうしても他人や世間には、複雑な人間の心の内の「動機」など説明できない。 というところを描いているが、何しろ自分でさえ理解できないのだから・・・。ご覧になられた方は、おわかりと思うが、裁判シーンで或る証人がそれを「芸術」になぞらえたが、これまた周囲の心証や了解には至らなかった。 「あなたたちは、死ぬほど人を愛したことがあるのですか?」 主人公の殺人の刑事被告人になった流行作家の裁判での涙の絶叫セリフである。愛と殺人と死は芸術的にはとても相性が良い。 或る人に「何故」「何故」と、ある過去の行動の動機を問い詰められて気づいたことですけど・・・。 私は日記というもの書いたことがないので「人生」というものも何かに書きつけておかなければ、先の「夢の名残り」みたいに、不確かであやふやでそれこそ人生が「夢まぼろし」になってしまうような気がする。 たくま癒やしの杜クリニック 浜田朋久 |