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■ 孤独 | 2007. 9.22 |
この言葉は、小説や文学では使ってはイケナイそうだ。何故なら小説や文学はその「孤独」そのものを描いているだけでなく、それか孤独な人々を対象にしているからだと思う。 もともと「読書」という行為は、孤独なものだ。ひとりきりで静かに読む。モチロン電車の中や飛行機の中や、車の中、レストランや病院の待合室でも本は読めるがその「読んでいる」という行為は人を寄せつけない。 一時期、母親が、子供の時、あまり私が本ばかり読むものだから「本を読むとバカになる」ナンテ、明らかに嘘と解ることをまことしやかに、私に、痛言し、図書館から本を借りることを禁じたことがある。 家族や、親しい友人の中にも、私が本を読むのを好まない人々がいる。 それは、軽い「ひきこもり」とも言える行為だからかも知れない。 人と話すよりはるかに有益と思えることも多いので、やはり一人静かに本を読む。そして孤独はさらに深まる。 秋の夜長。読書の時間は長くなる一方だ。 「本屋」というのも、妖しい場所だ。 ロバート・デ・ニーロとういアメリカの俳優の一時期流行った昔の映画「恋に落ちて」という恋愛映画も、同じ俳優の「ヒート」というアクション映画でも、恋の出逢いが偶然か必然か「本屋」になっている。 この男優にはそのコワモテの外見に似合わず意外にも恋も読書もよく似合う。 考えてみると、「知的好奇心」も「性的好奇心」も同じ脳のセンターを共有しているのかも知れない。 それは、飢えたケモノのように、「孤独な精神」と「性の衝動」がそれを満足させる為に、「脳を駆り立てる」という点で共通しているから。 ありがとうございました。 たくま癒やしの杜クリニック 浜田朋久 |