コラム[ひとくち・ゆうゆう・えっせい]

コラム:ひとくち・ゆうゆう・えっせい

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■ 大人が楽か子供が楽か2007. 8.27

今回は治療の内容について少し書きます。匿名性に注意しながら・・・。スミマセン。
「大人と子供ではどちらが楽だと思いますか?」
この問いを時々投げかけると、「心の病気」の人も「体の病気」の人も「子供の方が楽です」と答えられる方が多い。
ついでに何対何くらいですかとも尋ねると、やはり想像どおり不調の度合いの大きい方程「子供が楽」という割合が増えるようだ。

実際には大人と子供で、どちらが楽か、個人的見解、感覚、それぞれで
あるのでとやかく言えないけれども、病気の治療上、できるだけ「大人」になってもらう必要があるので、具体的に「大人」と「子供」の比較をしてもらうことにしている。
「子供とはどういうところが楽ですか?」
【1】仕事しなくて良い
【2】自由
【3】遊んで良い
【4】親に世話してもらえる
【5】親に甘えられる
という風に、当然ながら依存的なものが多い。

人間の場合、成長の段階で「依存」というのは必ず必要であるが、逆に言えば、そのような甘い依存的な喜びを子供時代に一瞬でも味わったという証とも言える。

「仕事しろ」「学校に行け」「勉強しろ」「自分の力でしろ」「甘えるんじゃない」等と、親にやかましく言われ続けたか、もしくは、そのような厳しい躾や、無言の圧力のもとに育ったとすればどうであろうか。

こういう理屈はそれ程、単純ではないのですが、こと「自由」について冷静に大人として考えてみると子供程、不自由なものはない。・・・と思える。

第一お金がない。
好きなものを好きなように食べることもできない。
自由へどこかへ出かけることもできない。
車やオートバイの免許も持てないので、自由な空間の活動もできない。
家へ帰らないとイケナイ。
学校に行かなければならない。
勉強しなければイケナイ。
夜遊びをしてはイケナイ。
酒を飲んではイケナイ。
タバコを吸ってはイケナイ。
SEXをしてはイケナイ(デキナイ?)
とにかくナイナイづくし。子供の生活など考えてみれば不自由極まりない。

このような場合「大人」になっても「子供が楽」という人には、こんなテーマで話をする。

「ナルホド」ってな具合で得心される方が殆どで、「大人が楽で自由ですネ」と、とりあえずは言ってもらえる。
この会話は、英語のアダルト(大人)からとってきて、アダルティングと勝手に名づけて心理治療に取り入れている。
(この場合、案外重要なのが、会話のときの姿勢だ。ゆったりとリラックスして、腰かけて心地良くしてもらう。とアダルトになりやすい。

大人になっても、子供でありたいという欲求が残っているのは、幼児期の「依存欲求」つまり「甘えたい」という欲求が充分でなかった場合と、「甘える」「依存する」というのが、快楽、快感となるような育児法で、心と体に染み付いてしまったと考えられるが、先述したように、
ことはそう単純ではなく、本人の持っている生来的な気質や親の気質、その他環境、教育レベル、知能経験、食行動、性行動の習慣等もあり、分析的に見ると、一人一人、全く異なる病態を示す。

結論的に言うと、病因論としては「誰かのせい」ということは絶対言わないし、言えない。
これは大原則。

ただ、表題にあるように、親をあきらめる、子供でいることをあきらめる、即ち、大人になるしかないヨ、大人の方が言いヨ、と示唆はさせていただく。

しかし前提として、充分、親でない他人(つまり配偶者も含め)ドクターやナースやカウンセラー等の「話を聞いてもらう」「保護してもらう」「許可してもらう」等、安心して依存できる人々と場所(病院、カウンセリングルーム等)で依存欲求、「甘え」欲求を満たして、「子供」でいることに「飽きて」「大人になること」を決断し、行動を始めた時に、本当の治療が始まる。

心療内科では、「治療モデル」というより「成長モデル」と言われる由縁であるように、「教育」というのが治療の完了に必ず必要となってくる。

目標は、社会復帰、少なくとも家庭復帰、学校復帰、職場復帰に今のところは置いている。
何故ならば、今のところ、社会のシステム上、又、心理的にも或る役割を担うことが「生きがい」の大きな要因であるからだ。
ことほど、自立は難しい。また、今現在、自立していても、いつ何時、依存に落ちてしまうかわからない。年齢性別に関わらず、心身が健康でいることは多くの人々の原則であるけれども、それが失われるリスクはすべての人にあるのだから。
最後に昔からの格言
「いつまでもあると思うな親と金」

あなたは「親をあきらめられますか?」

ありがとうございました。


追記1
依存すること、言い変えれば「人のお世話になること」の好きな人々の末路と言うのは決まっている。普通それは、病院であり監獄であり○○施設である。
家族という牢獄もある。人間という存在そのものは、広々とした自由な精神を持ちながら、肉体という獄舎につながれているのが本質的姿だ。肉体の感覚、欲望にあまりに執われていると精神の自由を失う。
自由を愛する人ならば、できる限り執着を捨てる必要がある。「自由」というものに無頓着であれば、人は多く、自然な状態で、その欲望を満たすこと、五感を喜ばすことに夢中になり、例えばその対象が人間であれば、愛着、恋着となり、所有欲を喚起し、嫉妬と猜疑とに自らが苦しめられることになる。

仏教の世界では、人間界はこの執着の世界と呼ばれる。人間はあらゆることに執着するが、欲は年齢と共に衰えるので「執理の病は医やし難し」と中国の古典にあるように、理屈や固定観念に執われる人の方が治りにくいと記してある。
このような人間の傾向は意識して避けたほうが良い。一生涯自分の理屈という檻の中に自分を閉じ込めてしまう結果となる。
そういう人も結構多くいるし、その頑なさは並たいていではない。それが自らを幸せに導くものであれば良いが、たいていはその逆の結果を招くようだ。


たくま癒やしの杜クリニック
浜田朋久


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