コラム[ひとくち・ゆうゆう・えっせい]

コラム:ひとくち・ゆうゆう・えっせい

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■ 人吉クラブ2017.12. 7

13才、中学1年から始めたバスケットボールというスポーツに親しんで50年以上になる。
中学、高校、大学、社会人と多少のブランクを挟んでずっと続けて来たワケであるから我ながらシツコイというかよく飽きずにできたものだと感心する。
間に水泳とかそれにつづくトライアスロンとかのスポーツも4年間ぐらい経験したけれどバスケからキチンと縁が切れたことはない。
バスケ中のアキレス腱断裂というケガを律義にも両足に受傷したり、肉離れとか肩の打撲とかをしたりでワンシーズンを棒に振ったりしたこともあったので何年間も通してつづけられたワケではなく、そのキャリアも途切れ途切れだ。
ここ数年間、特に60才を過ぎてからは単なる怠惰な心の為にバスケの練習に行かず約1年間休部状態だった。

筆者の住む人吉市では40年前くらいから「職場対抗」なる名称のバスケの大会が市の協会主催で毎年12月に開催される。
この大会には帰郷当時から毎年出場していてかれこれ35年になる。
ちなみにこの大会の準備運営にあたるのは「人吉クラブ」という市内でも伝統のあるクラブチームのメンバーで、1部から16部まである県内のリーグに所属し、2部と3部を行ったり来たりしていて2年間だけ1部に上がったことがある。
非道くまじめで堅物の学校の先生であったスタープレーヤーがいたからで、この先生は1試合で40点近く得点し、シュートもうまくスタミナもあったがその得意さの割にバスケットボールをあまりお好きではないらしく早々とクラブを退部され現在は校長先生としての職務を全うされていると聞いている。
この選手の影響でリーグのルールが変わった・・・というくらいそのいくらか情動面の起伏の無さからくる表情とか存在感の希薄さにひきくらべ県内でも名を知られた影響力のある人物であった。
筆者の9才年下の55才である。

熊本県の教員クラブというのは一度全国でも優勝したことのある強豪で、その中のメンバーの一人はオリンピック選手でもあった。
バスケットボール雑誌に名を載せられるようなメンバーが少なくとも5人はいた。
大したものである。

話を戻す。
その職場対抗に出場するのに少しはボールに慣れておこうと1年ぶりに人吉クラブの練習に参加した。
それは午後8時半頃から10時までで簡単な基礎練習・・・ランニングシュートと3対3、速攻とか割と定番の練習メニュー・・・の後、1時間くらい男女別にゲームをする。
これは結構楽しいが、油断していると夢中になり過ぎて怪我をしたり疲れ果ててしまったり(主に夏場)するので要注意だ。

64才になったばかりの我が肉体がどれくらい動いてくれるのか心配で恐る恐るの練習であったが、思いのほか体が軽い。
昨年の12月からすると約18kgの減量(88kg→70kg)のお陰かも知れない。
コート上と自分の感覚では軽やかに駆け回ることができた。
30才とか50才とかの年下の現役の選手たちとプレーしてみて、とりあえずミドルシュートも入ったしディフェンスもできたしで、我ながらの「元気」を実感できて結構内心では満足であり嬉しかった。
普段から歩いたり走ったりして体を鍛えているワケでは全くないのにである。

1年余り運動というものをあらためてしたことがない。
少なくとも肉体的には怠惰な日常を送っている。
それでいきなり若者たちとバスケであるからクラブの連中も多少驚いたようで「先生、まだバリバリですネ」などと言われた。
それでもそんなおだてに乗るほどおバカではないと自負していても悪い気持ちはしない。

人吉クラブのメンバー達はとても人柄の良い、素直で明るい人格者が多いのだ。

特にキャプテンを務めた男達は人望も実力(バスケットの競技能力の高い)もある立派な若者ばかりだ。
年下ながらいつも尊敬の念を抱かせられる人物が多い。

スポーツ選手を束ねるリーダーというのはかなり高度な能力、人間力を必要とする。
それぞれに「我が強い」からだ。
20代から30代半ばまで約6年間自らもキャプテンを務めたが、その時のリーダーシップの難しさは給料を払って雇用している人々のそれとは別の意味で結構苦労した。
何しろ何の利害関係もないのであるから・・・。
これは或る意味プロの世界より厳しいと言える。
そういう理由もあってかキャプテンに選ばれた男の有徳のレベルは相当なもので、歴代キャプテンの顔を思い浮かべて比較すると筆者自身が恐らく最低のレベルであったと思える。
これは別に自分を卑下しているワケでもなく美しい謙遜でもない。
極めて正直な感想である。
人望と実力という点で彼らに到底及ばない。
ただ経験上多少アタマは勝っているかも知れない。
自分の得意技である「勉強」によって人望もどきの偽者のチカラと激しい努力によって「実力」も身につけたつもりである。
それらは殆んど少しの実りも得られなかったが、自分なりに相当頑張ったとあらためて振り返って思う。少なくともリーダーシップの何たるかを深く考えさせられた。
そういう努力の結果として人吉クラブを何とか短い間ではあったが「維持」できたと少し自負はしている。

そういうワケで筆者は「学歴」を信じていない。
学業成績と、ことリーダーとしての能力については全くの別物なのである。

それにつけても、この年でバスケの出来るカラダをくれた両親に感謝したい。
仲間に入れてくれているバスケのメンバーにもとても感謝している。
カラダを動かす喜びというものがそれほど小さくはないこともあらためて感じた。

ありがとうございました
M田朋玖



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